他の人も私と同じかどうか知らないが、とにかく私は「美」を長時間熟考することはできない。「エンディミオン」の第一行目を書いた時のキーツほど虚偽の陳述をした詩人はいまいと私には思える。美しい物が私に美的感覚の魔法をかけてくると、私の心はすばやく他へそれてしまう。景色や絵に幾時間も恍惚として見とれることができると言う人の言葉は、どうも疑わしいものだ。美は恍惚境である。それは空腹と同じくらい単純なものだ。特に云々することは何もない。バラの香りのようなものだ。人はその香りをかぐことができる。それだけのことだ。だからこそ、芸術の批評というものは、美に関係のない、したがって芸術に関係のない限りならよいが、
さもなければ退屈なものなのだ。世界じゅうの絵の中で、おそらくもっとも純粋な美しさをもつと思われるティッィアーノの「キリストの埋葬」に関してさえ、批評家の言えることといえば、「行って、見てきなさい」というだけである。そのほかに言うべきことといえば、歴史、伝記などである。しかし人々は「美」に他の要素を付け加えるーー崇高さ、人間的興味、やさしさ、愛情などーーこれというのも、美だけでは長い間人々を満足させないからだ。美は完璧である。そして完璧というものは(これが人間性だが)われわれの注目をほんのわずかの間しかひかないのだ。
(pp.147-148、サマセット・モーム『お菓子と麦酒』)
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