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勝手に引用のことを語る

 悪習に染まっていたわけではない。実行するときには、始めることにたいする抵抗感と、まねくかもしれない結果にたいする不安で、いつもいっぱいだった。想像だけが不健康な方向にもっていかれていた。1週間のうち毎日がしだいに鉛のようにテルレスに重たくのしかかってくると、からだを腐食するような刺激がテルレスの気持ちをそそりはじめた。ボジェナを訪ねた記憶から独特の誘惑が生まれた。ボジェナはとんでもないほど下品な人間に思われた。ボジェナとの関係、そのときテルレスが味わった感情は、自己犠牲の残酷な儀式のように思われた。テルレスは刺激された。なにもかも置き去りにしてしまいたくなった。それまで自分を閉じ込めていたものを。特権的な立場を。植えつけられてきた思想や感情を。なにももたらしてくれず、なんの印象もないすべてのものを。テルレスは刺激された。裸になって、すべてのものを剥ぎ取られて、猛烈なスピードで走って、その女のところへ逃げこみたくなった。
 それは、たいていの若者の場合と変わりがなかった。そのときボジェナが清潔で美しく、テルレスがボジェナを愛することができたなら、テルレスはボジェナに噛みついていたかもしれない。官能の喜びをふたりにとって痛みにまで高めていたかもしれない。というのも、大人になりかけの人間の最初の情熱とは、ひとりの女にたいする愛ではなく、みんなにたいする憎しみなのだから。自分が理解されていないと思うこと。そして世間を理解していないこと。そのふたつのことは、最初の情熱にくっついているものではなく、最初の情熱のたったひとつの、偶然ではない原因なのだ。そして情熱そのものが逃亡なのだ。逃亡しているときにふたりでいることは、二重の孤独を意味しているにすぎない。
 最初の情熱はどれもほとんど長続きせず、苦い後味を残す。思い違いであり、失望なのだ。後になると、そのときの自分が理解できない。なんのせいにしたらいいのかわからない。なぜか。このドラマではたいてい人間はおたがいに偶然の存在だからだ。逃亡中の偶然の道連れ。情熱が冷めると、もう相手のことがわからない。気がつくのはおたがいの対立ばかり。共通点に気がつかないからだ。
 テルレスの場合、ちがっていたのは、ひとりぼっちだったという理由にすぎない。年配の下品な売春婦は、テルレスのなかにあるものをすべて目覚めさせるということはできなかった。しかし女ではあった。だから、熟しつつある芽のように結実の瞬間を待っているテルレスの心のなかの部分を、いわば早めに表面に引きずり出したのである。(『寄宿生テルレスの混乱』pp.60-62)