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あんとわのことを語る

【先に知ることは、幸か不幸か?】

組曲(惑星)について、今日wikipediaから得た知識
今日のような知名度を獲得するのは、1961年頃ヘルベルト・フォン・カラヤンがこの作品を発掘し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会で紹介したことがきっかけである。カラヤンは続けて同じオーケーストラでレコーディング、鮮明な録音もあって大ヒットとなり、この曲は一躍有名になった。それ以後近代管弦楽曲で最も人気のある作品の1つとして知られるようになった。

かつて、音楽の授業で「木星」(組曲〈惑星〉より)を知って気になった私は、当時、レンタルしてきて録音して、「木星」だけでなく組曲全体を、ものすごくよく聞いていた。 それは、カラヤン指揮のものだった。

ある時、別の指揮者が指揮した「木星」を聞いたが、耳が(脳が?)受けつけなかった。

これほど音楽に疎い私がこんなことを言うのは、おこがましいにもほどがあると、わかってはいるが、とにかく、指揮者の違いとはこういうことか、カラヤンが別格とされるのはこういうことか、と、その時、直感的に思ったのだった(音楽的になんて わからないので)。

もはや、カラヤン指揮の〈惑星〉でなければ満足できない、ということだった。

何年もあとになって、ある時、ラジオを聞いたら、「木星」の放送途中だった。 あれ? この「木星」は、よく聞いていた当時のような感覚で聞ける……まさか、と思ったら、曲の終了後、カラヤン指揮の「木星」の録音であると、アナウンサーが言った。

じつに、カラヤン指揮の威力というのは、相当なものであると思った。

この時ふと、過去に雑誌で読んだエッセイを思い出した。

それは、ものすごく落語好きな人のエッセイで、若い頃、桂米朝の落語が収録されたレコードを買い、間の取り方まで覚えるほどに、繰り返し聞いたという。 すると、それと同じ演目を ほかの落語家がやるのを 寄席で聞いても、“米朝と間の取り方が違う” “米朝なら ここをもっとこうするのに” などということばかりが気になり、米朝がやったのを超えるものに出会えない、と思えて、とにかくそのレコード収録の演目に関しては、ほかの落語家がやるのでは、心底楽しむことはできなくなってしまった、という。

ものすごいのを、最初に/先に 知ってしまうと、往々にして、起こることのようで。