【Fahrenheit 451】
過去数年の間にほんの数回しか通っていない、という道がある。数回しかないがゆえに、通った時どんな状況だったか、何を話したかは比較的よく覚えている。
昨年、友人と一緒の時に、その道を久しぶりに通り、映画の話になった。友人は、特に映画好きというわけではない。外国語の勉強というか忘れないために見ることはある、という。いついつどこそこでなんという映画を見た、という話の中で、友人が「Fahrenheit…… なんとかっていうやつ、忘れたけど。それも見た」と言った。タイトルにFahrenheit? だったらそれは “Fahrenheit 451” だろう。『華氏451』。トリュフォーだ。それを聞いた私が目の色を変えないはずがなかった。
私の周囲にはなぜか、いわゆる映画ファンがほとんどいない。直接知っている人で映画好きといえる人は、片手の指でこと足りる人数しかいない。だから、ネット上に書けば当たり前のように通じる映画の話も、日常会話では通じないことのほうが圧倒的に多く、トリュフォーの映画についての話など、それこそ通じたためしがない。
それで、特に映画好きということもない友人の口からトリュフォー作品のタイトル (の一部) が出た瞬間、私のテンションがあがったのである。「本燃やされるやつ! 本燃やされるシーンがあるやつやんな? それトリュフォー、トリュフォー! その監督が好きで…」と勢いで口走る私。「いや、そんなシーンあったかどうか忘れた、監督とか全然わからんし…」と答える友人は、急に勢いづいて前のめりにトリュフォートリュフォーと言うこちらに若干気圧されているようであった。
私にしてみれば、トリュフォー映画の話をできたことが (たとえ相手が映画好きでもなくトリュフォーファンでもないとはいえ) そこはかとなく嬉しかったのである。“Fahrenheit 451” のことを言っていると気づいた瞬間嬉しかった。日常会話で、相手の口からトリュフォー作品のタイトル (の一部) が出たことが。
ただ、特に映画好きでもない人に向かって、監督だのなんだのとあまりに白熱して話しすぎると、悲しいかな、通じなさすぎて相手がひいてしまう場合がわりとある。それで、今日はこれぐらいにしとったるわ的な感じで、映画の話はそこでやめにした。
トリュフォーについて語りたいという衝動を抑えつつ、久しぶりに通るその道を歩いていくと、見覚えのある店があった。その時より3年ほど前に、5〜6人で一緒にそこを通った際に立ち寄った店だった。懐かしいといって、その話を友人にした。へえ、じゃあ入るか、と言うので3年ぶりにその店に入った。和風の雑貨などを売っている店である。店内の様子も変わっていなかったので、友人に向かって懐かしい懐かしいと何回も言った。ひと通り見て、「このあたりで3年も変わらんと店やってるって、結構やり手やねえ」と言う友人とともに、店をあとにした。
その道はまた、別の友人と一緒だった時にも通ったことがあった。その時はアルコールが入っていたせいもあり、ずいぶんふざけて通った記憶がある。ふざけて通ったその時と、“Fahrenheit 451” のこの時、目的地が同じエリアにあった (だから同じ道を通ることになったわけだが)。しかし、通る時間が違う、話した内容が違う、置かれた状況が違う。懐かしいといくら言っても、なにごともついには変わってしまうものである。
この道を最後に通ったのは、今のところ、“Fahrenheit 451” の会話の時である。次にこの道を通る時にも、既に何かしら変わっていることであろう、“Fahrenheit 451” の時とくらべて。次に通るのがいつになるかはわからないとはいえ。ただ、“Fahrenheit 451” の会話、いや、結局内容にもろくに触れなかったわけだが、今のところその道は、《“Fahrenheit 451” の会話の道》なのである。