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あんとわのことを語る

【名前の呼び方】

人をどう呼ぶかの話。酔っ払いの友人がいるが、よく知っている友人なのでそのあだ名もそりゃあ知ってはいるが、そして職場関係の人とかいうわけでもない友人なのに、こちらからは、なぜか基本的にずっと苗字呼びである。で、この酔っ払いの会話の中に頻繁に出てくる、酔っ払いがしょっちゅう一緒に飲みにいっているという同僚のかたのことは、なぜかあだ名で呼んでいる。とはいえ私はこの同僚のかたのことを、顔見知りと言うことすらできないほどに知らない。顔合わせたことがあるのは2回だけ、それも去年だし、挨拶程度にしか喋っておらず、道ですれ違ったとしてもお互いまず気づかないだろう、というレベルの知らなさである。なのに馴れ馴れしくあだ名で呼んでいるのは、苗字を1度くらいは聞いたことがあるものの既に忘れ、しかしそれを酔っ払いに尋ねて確認するほどまでには知るを要さず、酔っ払いが呼んでいるのと同じあだ名で呼んでおけば、会話の中に出てきても誰を指しているかわかるからである。なので、よく知った酔っ払いのことをいまだあだ名でなく苗字で呼び、ほとんど知らない人のことをこの上なく軽い感じのするあだ名で呼んでいる。

軽い感じで呼んでいるといったら実際に会ったことのないハイカーのことであってもidなどで軽い感じに呼んでいる訳だが、それはidなどしか知らないので軽くても仕方がないのである。ネーミング王子に倣って先輩と付けるもまたよろし。

歴史上の偉人や、存命中でも著名人などには基本、敬称を付けないが、映画監督に対してだけは文中でのみ監督と付ける私の中のならわし。字数に限りがあったりその時の文章の全体の雰囲気によっては監督と付けない場合もあり。加えて、その映画監督のことは苗字だけで呼ぶほうが一般的に通りがいい、という場合も付けなかったりする。スピルバーグ監督とかルーカス監督とは、全然ではないだろうがそんなには言わない。スピルバーグ、ルーカス (あるいはジョージ・ルーカス) となる。スピルバーグはフルネームが長いため、フルネーム呼びをするとしたら文章の冒頭1回のみ、とか。ゴダールやトリュフォーやキェシロフスキ (やはりフルネームが長い) もそんな感じか。会話の中で名前を挙げる場合は、どんな映画監督にでも監督とは付けない。会話と文章の違い。

ハイクで私は、リドリー・スコット監督のことをよくリドリー監督と書くが、なぜスコット監督でないのかというと、弟である故トニー・スコット監督もスコット監督だからである。昔、映画関連記事などで、リドリー監督のことを半分揶揄するような感じでリドリー様と書かれているのを見たことがあったがあれはなぜだったのだろう。あの頃、興行的にこけた作品でもあったか…? 時期がどうだったかが微妙だが、たしか、カンヌか何かの会見 (あるいは違う席だったかも) の際にリドリー監督が葉巻を吸いながら喋ったとかいうことがあり、向こうでどういう反応をされたかは知らないが、日本では「横柄な態度だ」と書かれてしまったように記憶している。そういう行動が許される席だったのか控えたほうがいい席だったのかがわからないのでなんとも言えないが。多少揶揄の混じったリドリー様呼びは、そのあたりが原因だったのだろうか (もちろん確証はない)。最近では略してリドスコと書かれていることもあるが、これは軽い感じがしすぎて嫌いだから私はこうは呼ばない。