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あんとわのことを語る

少し前、トリュフォーのドワネルもの5部作の中のとあるシーンを、なんとなく思い出すことがあった。あれは「家庭」の冒頭とラストか。主人公アントワーヌが妻と一緒に家を出るシーンである。

アントワーヌは、出かける準備に自分よりも時間のかかる妻に “はやくしろ” と言わんばかりに、玄関のドアを開けた途端、妻のコートとバッグをアパートの階段の踊り場に放り投げる。駆け降りてそれらを拾う妻は、何をするの、とは言うものの、別段怒った様子もなく、またか、ぐらいの感じである。そしてせっかちに階段を走り降りるアントワーヌに合わせ、自分も小走りで降りてゆく。

ほかの人に対して同じことをすれば失礼に当たるが、この両者の間ではOK、というやつだ (だからこそ、妻が本気で怒る描写がされていない)。親しくもない人のコートとバッグを放り投げれば当然失礼だが、アントワーヌと妻との間柄ゆえそれが通り、当たり前となっている。

そういう、この両者の間だけで通る、みたいなことは、内容はどうあれ (コートとバッグに限らず) 人間関係の中で誰しもあるだろうことと思うが。たとえばそれが、両者のうち片方が “何をするんだ” と多少なりとも立腹する/あるいは困るようなことであっても、それも両者の関係性の中で培われたもののひとつであるよなぁと、改めて思ったりした次第 (もちろんその内容にもよるが)。親しくない人によってコートとバッグを放り投げられれば (あくまでも例えである) そりゃあ何をしやがるかと思うが、相手によっては “しゃあないなぁ、もう” で済んだりするこの違いは、やはり両者の近さを表すひとつであるな、と。あとからそう思ったりするのだろうし、それだけ近づいたことはよかったじゃないかとも言えるだろうし花を入れる花瓶もないし。

そしてまた、まったく別の映画のことを、今日久しぶりに思い出したのだった。トニー・ガトリフの「僕のスウィング」。親元に帰らなければならなくなったフランス人少年がロマの少女スウィングに日記を託すが、少年が去ると、スウィングは日記をその場に置き去りにしてしまう。

ふと、自分の記憶があやふやではなかったかと、ストーリーを調べ直した。スウィングが日記を置き去りにするシーンがあるのは間違いない。そしてその理由は、ロマの居留地で暮らし学校に行っていないスウィングには文字が読めないから、ということだった。

日記をその場に置いてドアを閉めてしまうところばかりが、印象に残っていたのだ。少年が帰らなければいけないとわかり、スウィングはそのことを受け入れられず悲しんでいた。少年が去ってゆくことへのやり場なき寂しさが、思い通りにならないというある種の怒りとなってそれを少年の日記にぶつけたかのようにも見えたし、思い通りにならないがゆえに、少年と過ごした時間を気まぐれに捨ててしまおうとしているかのようにも見えたのだった。文字が読めないからというよりも、そんなふうに見えたのだ。

この場合どちらがいいのだろう、と思った次第である。やり場なき寂しさを持ち続けるより、捨てるほうがいいのかも知れない、と (そしてなんだか、これを見た当時の自分はずいぶんと勝手な解釈をしていたようであるが、やはり人間とはそうやって、自分の見たいように見てしまうものであるか、と)。

一方では、記憶も過去も忘れ切らずに持ち続ける心理というのも、確かにある。「グレート・ビューティー/追憶のローマ」の主人公のように。この映画のことは、一昨年見た際にずいぶんと考えた。忘れない話については、今はしかし、あえて忘れておくことにする。