・〈魏志倭人伝〉に「南至投馬國,水行二十日」「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」という記述がある。
・大陸性の文明である古代中国では、地形について「水」といえばまずは川を指し、次に湖で、海は最後。ただ「水行」と書いた場合はまず川の移動を表していると考えられる。だから韓国を通過するところでは「循海岸水行」と、海の沿岸航路であることを明記した。
・…という考えが正しければ、ただ「水行」とだけ書いてある不弥国から先は、川を通ったのであって九州から出ていない可能性が高い。九州北部には遠賀川、那珂川・御笠川、筑後川・宝満川など、おそらく古くから水運に活用されたと想定できる川がある。
・川が弥生時代の幹線道路であったとすると、重要な水系を押さえることで広域支配が可能になったと考えられる。奴国が那珂川下流にあり、邪馬台国が筑後平野側にもしあったとすると、「倭国乱」は商社の奴国から農協の邪馬台国が主導権を奪ったという事件であったかもしれない。
・穀倉地帯を流れる川を使って米を集め、奴国の様な港市から輸出して銅器や鉄材に易えていたかもしれない。遼東あたりから当時の米の痕跡でも見つかると面白いんだけど。
・他方では海の航路がもう一つの幹線道路であり、いずれにせよ古代日本では水を制することから広域国家の形成が始まった。
・ともかく水を中心に置いて地図を見ないと古代日本は分からない様です。