日本社会は議論が嫌いなのだと思う。日本だけではないかも知れないが。
議論が嫌いだから「同一である」ことを求める。そして議論が始まると怒る。
議論を省ければエネルギーは少なくて済むから、完全に間違っているわけではない。ただしそれは微調整で済む程度に差異が少ない場合だ。
個性が様々になり、文化の交流が容易になった時代に、同一性を求めるやり方はどうしてもリスクが高い。
そこで議論の出番なわけだか、同一性主義者は「同一性を得るために」議論をする。当然それではダメだ。違いを認め合うための議論でなくては。
排外主義者や全体主義者も、同一性を得るために議論をする。それでは最初からケンカをするために話し合うようなものだ。差異をなくすためではなく、差異を埋める、差異を知り認め合うためのでなくては。
自分(id:ken_wood14)のことを語る
