【コピペ】
読売新聞09/16地球を読む、山崎正和「日本人論」再考
オリンピックが終わって目立ったのは、日本の集団戦の強さだった。
(中略)
実質は個人が戦う競技でも、団体戦での善戦がめざましかった。
(中略)
独り胸を張って「俺は伝説になった」と嘯く選手は皆無だった。
(中略)
「柔らかい個人主義」と言う考え方を提唱し、日本人が実は、将来の個人主義の普遍的な理想像を目指していると考えてみた。
(中略)
組織がメンバーシップの殻を持ち、強い指導者とピラミッド型の指揮系統を備え、力を評価基準にしているのに対して、社交は
(中略)中心人物はいるものの、権力も指揮系統もなく自由な個人が自発的に集まるのだが、そのさいの評価基準は人間的な魅力である。
(中略)
「絆」社会と呼んでいるものは、この社交型人間関係の拡張版ではないかと
(中略)
残念なことに「絆」社会に生きることは、一方で奇妙な焦燥を誘うらしい。
(中略)
何よりも問題なのは、この焦燥が国家規模で共有されることで(中略)戦前の日本では(中略)集団主義が外に敵をつくり、内に個人を抑圧した。
(中略)
国家主義(中略)の代替物として今、奇妙な政治衝動が瀰漫し始めた(中略)、それは絶え間ない「政治改革」への欲求である。
(後略)
