>僕は、やはり「疑えるかどうか」だと思います。「疑っている自分」に酔ってはいけないけれども、やはり「疑う」という行為には、原理的な力がある。[人権の自明性]でも書いたけど、僕は「自己矛盾を誘う言葉」は、「手段を目的化させない」という点で優れていると思っています。つまり、“疑う”ことを絶対化することは、その絶対的な行為則としての“疑う”ことに反することになる。
暴力は根絶不可能だけれども「人権」を最上位に置くことが抑止力になるのでは、、、という考えはよくわかるんですね。
でもそれをこの「疑う」にもスライドさせて考えられるのかなー。
絶対的な「疑う」状態は不可能であるから、どこまでも懐疑的である必要が生まれる。そのほうが、すっきりしないからベターだろう、ということですよね。
うーーん、まことにすっきりしないw
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