私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。
コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、
どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』
これらの心理は、我々にとつては只々不可思議千万のものといふの外はない。
けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。
そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……
この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。
もし傍人がこの病気について特種の智識をもたなかつた場合には
彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)
患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、
この奇異な感情を表現することは出来ないであらう。
けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。
詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。
狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。
人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。
我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。
人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。
けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。
この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。
この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。
そして我々はもはや永久に孤独ではない。
~ 萩原朔太郎 「月に吠える」 序 より抜粋
絵のある喫茶店(雑談場)のことを語る