鷲田清一さんの<想像のレッスン>から以下引用。
「痛みを分かち合う」というのは、正しい言葉である。シンパシーの語源そのものである。
が、そのとき大切なのは、痛むひとがどのように孤立せざるをえなくさせられているのか、
そして彼、または彼女を孤立させないためにはどのようにしたらいいかを、きちんと見つめ、
考えることであろう。
- ------------中略-------------
痛みというのは、誰も代わりに痛むことができないという意味ではプライヴェート(私秘的)なものである。
そしてプライヴェートはプリヴァティブ(なにかが奪われていること、欠如している)ということでもある。
米国に亡命したドイツの社会学者H・アーレントは、大衆社会化状況が顕在化した一九五〇年代に、
それを「他人によって見られ聞かれる事から生じるリアリティを奪われていること」と規定した。
そして「大衆社会では、孤独はもっとも極端で、もっとも反人間的な形式をとっている」、と。
そういうローンリネス(孤独)の大衆現象が、いま、「痛み」の孤立というかたちで、わたしたちの社会に
再浮上してきているような気がしている。