id:rory_No27さんからこれに関連するレス↓をいただいたのでここで返信します。(返信:1)
http://h.hatena.ne.jp/rory_No27/9234281303387823903
マッキノン、ウォーキンについて。
どちらも読んだことが無いないのであまり突っ込んだお話が出来なくて申し訳ないのですが、せっかくレス頂いたのでお返事を。
彼女たちの著作は男性側が女性のセクシャリティを一方的で画一的な形に押し込めるのを拒むのに力を与えた、そこには価値があった――というような意味でしょうか。
であれば、そうなのだろうと思います。それ以上の何かをもたらすのか、が問題なのですね^^
>これがまた、尊厳破壊のファンタジーとその表現がすべからく現実社会の抑圧の鏡であると述べてしまった時、僕らから、「赦す」という受動的な能動性が全く奪われてしまうわけですね。また別の画一化が生まれうる。
強いて言うなら、ファンタジーを破壊するか、全く反動的なファンタジーを表現するかくらいしかなくて、泥仕合だけが能動性を意味し、突き詰めればもう、他人がいるからこそ生まれうる承認の喜びが位置する場所がなくなってしまう。
すみません、「現実社会の抑圧の鏡だ」とするのは誰の主張なんでしょう?彼女たちの主張の基盤にそれがあるのですか?
(そうだとして)そういう言い方がある種の責任転嫁になって、結局「誰も悪くない、人間の業だよ」と
安易な自然主義になってしまうというのはわかります。
で、「強いていうなら」~~以降がちょっとろり~さん的表現で走って行っちゃってるカンジで
「もちつけ!」と言いたくなってしまうのですがwww
うーーん、そこ、難しいですね。。 ヘテロカテゴリーに属する人間(マジョリティ)ゆえの語り方の難しさもありますし、、、
「個人的なことは政治的なことである」これはその通りと思うのですが、だからと言ってそこを分けないで
倫理問題に決着が付けられるとは私には思えません。
(その点はマッキノンもそこまで強い主張をしているのではないようですね。
彼女を叩くためにそういう過激な主張をしていると湾曲されたのだという意見もあるようです。)
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