id:usaurara
id:itumadetabeteruのことを語る

(続きです。
方法論のこと。
 
>万能の方法はない、ということです。
アイデンティティポリティクスと個人からはじめるというやり方は、共存不可能ではないし、むしろ、どちらかだけではダメだと考えます。
 
これは「トップダウン的にもボトムアップ的にも」という言い方で、あの中のお一人と
シェスタさんの間で合意を見ていましたね。
アイディンティティポリティクスで公的な公平性を実現するように働きかける一方で、
個々人のリアルな関係性の中で意識変革をしていくということには私も賛成します。
で、

>これをどちらかに限定しようとするのは、世界を静的に眺めているからではないでしょうか。

↑この部分がどういう意味なのかもう少し説明をいただけるとありがたいです。
 
 
それで、「語り方・語る場の問題」をまた蒸し返すのですがw
アイデンティティポリティクスというのはマイノリティが集まって声を大きくし、世の中に届ける運動ですが
そういう場合複数の人間の理念を統合しなければならないからどうしても頑な(静的)になりがちですね。
私も運動をダイナミックに展開して政治を変えることが特に法的な部分で必要だとは思うんですが、
そのときにあまりに頑な過ぎてヘイトやルサンチマン感情を互いに発露しては逆効果になるという点で
注意が必要だなあと思いました。卑屈になるとか下手に出るとかではなく、相手に審問や断罪をする場合
(今回の12質はそうですね)個人的なそれと切り離して行う配慮が大切だと思います。
その対話の場が、切り離しの出来る場かしにくい場かよく見極めてやり方を選ばなくては
今回のようにどんどん対話可能性が閉じられてしまう結果になるんじゃないか、と思います。
 
 
>ただ、あまり、それを意識しすぎても仕方がない気もします。
場というのは、静的なものでもあれば、動的なものでもあるからです。
そこに誰が、どんな形で参加するのかは、確率的には予測できても決定的には予測できないからです。
 
決定的には予測できないのはどんなことも同じではないですか?
確率的に予測すれば充分、と私は思うんです。でも、予測が不可能な、つまり余りよく知らない場のことを
予測しろと言っても無理がありますね。その点今回のようなある意味「事故」のような事も
起こりうる、だから「そのことも含めて予測を」というのが私は望ましいと思っています。
つまり「私はこれから踏み込む場の質をどれだけ知っているだろうか」知らない場合は
「知らないことがどういう影響をもたらすのか」と考えてみる慎重さが必要ということです。
今回の質問者にそういうデリカシーを私は感じられませんでしたけど、いろいろと
経験を重ねることで予測可能にはなっていくのだろうしその礎の一つになればいなと思います。