id:usaurara
id:itumadetabeteruのことを語る

おはよー^^(て昼ですが^^;    例の件、続きをここで書きますね。(でもなるべく一般化して話します。)
この件ではどちらをも下手に刺激したくないという気持ちがあって、ここで言及するのも星をつけるのも控えていたのですが。
 
私はメールで書いたように↓「語る場」の問題が大きく関わっているなあという印象が今もあります。>12質

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  • (メール抜粋)
     
    はてダのブクマとハイクとでその反応が大きく違ったのは何故かというと、「語り方」「語る場」の違いだと私は思うの。
    つまりコミニュケーションの質、濃度などが、それによって変わるってこと。
    特にテーマがこういうプライベートな、普段なら公的に語りにくい分野であればなおさら。
     
    ブクマコメで「こういうのって、自分を振り返ってみるのにすごく役立ちますね!」みたいな
    他人事のようなコメントを可能にするのは、その人が個人的に自分を曝け出して応答することを
    最初から逃れていたからだと思うのね。ハイクの人と立ち位置が違う。
    だからあの日本語として文脈が不明だったり、全体として何が聞きたいのか
    よくわからない質問状に、そういう寛容な受けとめが可能だったのだと思うんです。
     
    (中略)
     
    つまり、シェスタさんがやりたいことは沢山の人の第三者的な同調などこの問題においては無意味で
    (そんなものなら簡単なわけで深い場所には決して届かないだろう、という確信があるのではないか)
    だから、世界を変えていく可能性は個々の実存を引っさげての対話からしか生まれないのだと言い、
    一緒にやりましょうと呼びかけているのではないかなーー。
     
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  • で、↑こう私が書いたあとの犬さんの返信で書かれていたあたりについて・・・
     
    ・数に圧倒的な偏差のある二つのカテゴリーがお互いに突きつける暴力性の質や強さもまた非対称
    ・抑圧を行う権力はどれも同じもの
     
    ということには私も同意しますし、初めからこれらにはシェスタさんも同意されていたのです。
    ただ、「そこを焦点化することがどういうことか」をずっと延々説明しているように思います。そこが最初から対立点でもあったと思う。
    要するに手法の違い、政治的アプローチの違いだと思うのです。
     
    でね、(ここで場の問題に戻るんですけど)誰かにとっての解決すべき・されるべき大きな問題について語り合うことの意味を考えるんです。
    ・閲覧者の少ないブログで見えない誰かに向かってこの問題を問うとき
    ・ある程度の閲覧数・反響が見込めるブログでブクマを巻き込んでこの問題を問うとき
    ・ハイクでこの問題を問うとき
    それぞれに適した問いかけのしかたとその効果を考えなければ、問題がデリケートなだけにいたずらに他者を傷つけるだけの結果になる。
    少なくとも私は最初からそれだけを言っているんですよね・・・^^;
     
     
     
    それから「名付け」と「ある種の優遇処置」のことだけど。
     
    うん、それはわかるんです。マジョリティだろうとマイノリティだろうと否応なく背負わされる。
    で、そのこともまた多分全員同意だと思うのね。優遇だったり冷遇だったり、そこに名付けが生まれた瞬間に
    実存に縄がかけられるというのは。。。要するに「で、どうする?」なんですよ。そこで何を、どこを撃つのか。
     
    シェスタさんが言っているのはそれはたしかに今そう見えていても、結局掴んでみたら藁人形ってことにならない?という感じかなと。
    「少なくともここハイクのような場で個人の暴力性をあぶりだしてみせるという行為は、、、」という但し書きが付けば、私はそれに同意です。