>積み重ねてきた(或いは、通り過ぎた)日々と、これから積み重ねる日々があるからだということ
先日雨の中ビル街歩いてて、ふと「誰かに呼ばれた」って気がしたんです。ちらっと桜のピンクが目に入って。
通り過ぎるとこだったけどあらためて見ると廃校になった小学校だった。(調べてみたら二十数年前に廃校になっててね。)
門扉にぐるぐる巻いた鎖も錆びて、もう長いこと人が入っていないのだろうにその奥で桜が満開に咲いてるの。雨の中。
きっとこの桜はたくさんの親子をここで迎えたり送ったりしてきたんだろうな、、、って思ったよ。
親子関係というのは否応なく積み重ねられていくもんですよね。リセットできない。だから重い。尊いとか正しいとかいう価値判断は措いて。
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喪失体験の語りということを考えてて、自分のことを思い出してました。(―語りは誰の為になされるのか―)
兄の喪失経験からまだ一週間ほどしか経たないときに、ふと犬さんが死をテーマにした詩を書いてるのを読んで
初めて私はそれを語ったのだったな、、、と。やはり呼ばれた気がしたんだと思う。(いや、勝手にw)
そんなふうに誰もが赦される場所を見つけたときに語り始めるんだと思う。
一昨日くらいにクラさんがダイアリーでお勧め50冊って本の話を書いていますけど、
そこに「ピギー・スニードを救う話」というアービングの短編が入っています。
これ、以前彼が是非と勧めてくれて読んだんだけど、人が物語りを紡ぐのは何故かということがテーマの
ちょっと変わった話です。チャンスがあれば読んでみてください。
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