ガラクタに咲く紫陽花のきらきらし多情も無情も人の世のこと
昨日作った短歌の後半「多情も無情も人の世のこと」について書き足しておきたくなりました。
買い物で通るゴミ溜めのような薄暗い一画に、真っ白な顎紫陽花が咲いていて
毎年「どこの紫陽花よりここのがいちばん綺麗だなあ」と眺めます。
紫陽花の花言葉「浮気心」や「多情」を人はこんな清楚な白い紫陽花にも言うんでしょうか。
白い花には「高貴」とか「一途」とか逆のイメージを読み取りそうに思いますよね。
でも一途にしろ多情にしろそんなものは人の世のものであって、
言葉というのはつくづく口から出た瞬間ブーメランとなる宿命なのだなぁと思います。
少女の頃、私はよく母に「お前はK子(母の妹)に似ている」と複雑な面持ちで言われました。
当時はウィットのある会話が出来る頭のいい叔母への嫉妬でやつあたりしてるのだろうなあ
と思っていたのですが、先日ひょんな一言で謎が解けました。
「あのひとは男でも女でも誰でもだから」
愛とは一途なものである(はず)、
ならば多情であればそのひとつひとつは薄いものである(はず)、
男女の性別関係なく好きになるど言うのはニセモノである(はず)等々。
皆がそうである、あるべき、と信じて生きていたい人は多いでしょう。
でも、私にとってはそれはあまり意味のないことに思えます。
そんな姉妹の確執を持ち越され、なんといい迷惑だったか!とちょっとばかばかしくなりました^^