- ---- 駄菓子 -----
「駄」とは太った馬と書く。
ならそれは存在理由がないか、かなり不足の状態であるか、
そういう不名誉な冠なのだろう。
さて、「駄菓子」と聞いて何を想うだろう。
そのこたえひとつからでも食文化と時代が嗅ぎ取れる。
(「チョコ」や「クッキー」というカタカナに「ハレ」を見る私には
「コンビニ」で買う駄菓子というのがすでに意味不明なのだがw)
駄菓子屋が私の視界から消えて久しい。
奪ったのは神戸の震災だ。
いずれ消えゆくさだめではあったが、あれさえなければ
わが子が「駄菓子」について親との共有概念をはぐくむくらいの猶予はあったはずだ。
災いはとてつもない力で時計の針を一気にすすめる。
人はなかなか追いつけなくて、その差分をメランコリーで満たすのだ。
今、日本にはそんな気持ちで佇むひとがたくさん居る。
捨てようと思うよりさきに、奪われてしまったひと。
そういう気持ちに寄り添う余裕を失わずにいたい。