- ------- リップスティック --------------(短編メタ小説・ごく近未来設定)
「あ、ジャガイモがない。ねえ、カレーお芋なしでいい?」
「えー、いやだぁー。じゃ、買ってくる!」
コンクリの階段を下り敷地の外へ来たところで、少女の足元に柔らかな光が灯る。
「いこうピッツ」
光は小犬のように落ち着きない運動をしながらわずかな距離をたもちつつ進んだ。
大型犬とすれ違い、おびえて鳴くのをなだめる。
電信柱で動かなくなり、リードを引く手つきをする。
雌犬をみつけて狂喜するから、ウンザリって顔で抱きかかえる素振り。
もちろん設定段階で解除しておけばそんな面倒はないのだが
ほんものの犬を飼ったことのある場合、初期設定で使うことが多い。
それどころか、ロス後だと愛犬の散歩コース以外にもさらに個別の反応条件を付加したがる。
暗がりを怖がるとか、坂道がニガテとか、体格のいい男性がキライとか。
いつものコースからちょっと外れた。芋だ。
道幅の広いほうへ出て賑やかなビル街に向かう。
ほの暗かった地面がしだいに街路に照らされてゆき
車と信号と店のBGMと人いきれがぐちゃまぜになった音もそれにつれ大きくなった。
その喧噪が数分続いたあと、そのなかに聞き逃してしまうほどのかすかな声がした。
「ピッ
ありがたいことにその瞬間の音はない。
音のかわりに赤や青や蛍光ピンクやさまざまの光のラッシュがめまぐるしく画面を覆て、そのあとすぐに暗転してしまっている。
少女の手から投げ出され空を舞ってのち、マッサージ店のこのデモ用ソファに着地したのだ。
そのことも、その後すぐに通行人がこれを見つけてくれたこともラッキーだった。
違法な店舗経営者がみつけても、人に気づかれずに街路のゴミとなっても、わたしがこれを確かめることは出来なかったから。
製品がただのイメージである限り、誤作動を事故の主因として責を問われることはない。
問われるべきを言うならば、失った犬と事故の記憶をその一瞬混同させてしまった少女のいわば「脳の誤作動」なのだ。
大人のわたしは誤作動などしない。責任のないことで混乱をきたしはしない。
ずいぶん長くここに座ったままでいるのは「この真っ赤なソファの座り心地がやたらいい」それだけのことだ。
音源を故障調査データから、今朝ラッシュの中で思わず止めたBLの音声ファイルに替える。
若い男の甘やかな声が、暮れ始めて輝きだした光の洪水をバックに囁いた。
唇を覆う。舌をさしいれながら指をあそばせ―――呼吸をはかりながらゆっくりと、ゆっくりと沈めていく。
くぐもった呻き声を口腔で受けとめてあなたの内側を味わい尽くす。身体から力が抜けていき、あなたは喘ぎあえぎ―――
おれは、そのまぶたを唇でおおって指を増やした。
間を持たせようと出していた口紅を両の掌に固く握りこみながら、雑踏の中でわたしはいつになく熱くなっていった。