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杞憂のことを語る

年配者トゥアーの塊に、トゥアー参加者でない老夫婦が混ざっていた。トゥアー参加者との会話から知れたのだが、夫婦ともに80歳代で、婦人のほうがいくらか年下だという。
仙台を過ぎたあたりで空席が目立ち始めた。老夫婦は本来の3列並びの席から2列並びの席に移動して食事したのち、また3列席に戻ったらしい。そこで静かな騒ぎが起きる。婦人が周囲に「物が無くなったのだがどうすれば良いのか」と尋ねてまわり始めたのだ。
最初に捕まって相談相手となったのは、トゥアー添乗員の姐さんだ。トゥアー参加者じいさんの不正確な話に根気よく付き合っていたのを見初められたのだろう。繰り返しておくが、老夫婦はトゥアー参加者ではない。姐さんはひととおり話を聞いたあとでJR(車掌)に相談するよう促し、別の車両へ離脱した。婦人は「2列席にいたときに弁当を食べたあと、ごみを捨てた。そのとき誰かに盗まれたか、もしかしたら自分が一緒に捨ててしまったかもしれない」「車掌はどこにいるの」といった陳情をしていたようだ。
その後、婦人は2列部分と3列部分を往復したり、おそらくごみを捨てた場所に行って戻ったりしていたが、後ろの席にいる私に声をかけてきた。「私は田舎から出てきたのでよくわからないのだが、JRに話をするにはどうしたら良いのか」という。「車掌に話をするべき。車掌室は9号車にあるものの、巡回しているので車掌室にいるとは限らないとアナウンスがあったと思う」と回答する。「いつ来てくれるかしら、こちらから行ったほうがいいかしら」などと畳み掛けられたので「わかりません」と答える。
また2列と3列を往復し始めると、トゥアー参加者じいさんが婦人に声をかけた。「何か無くなったのですか」「主人のひげ剃りが見当たらないのです」「いけませんねえ」「車掌さんに相談したいのですがねえ」「北海道は初めてですか」「そうです茨城を7時半に出発して。ツアーですか」「そうです北海道には何度も来ています。青函トンネル内に駅があるのを知っていますか」「知りません。どちらまで行かれますか」「北斗駅」「ええと私たちは函館に泊まります」「ああ、駅についたら大沼に行きます」「おいくつですか」「69歳」「まあお若い。主人はこの年なのもあってトイレが近くて、席を外している間にもしかしたら盗まれたかもしれないし、私がごみと一緒に捨てたかもしれないし。本当はこっちの席なのですが、食事の間そっちが空いていたので席を移っていて」などなど。
そこへ車内販売姐さんが通りかかる。婦人はJR側の人間とみて食いつく。「かくかくしかじか。どうすればいいのかしら」「車掌が承ります。私は車掌に連絡することはできないのですが、今、車掌は巡回中で、終点に着くまでに戻ってくるかどうか何とも言えない時間です。ここは2号車、車掌室は9号車で遠いのですが、9号車に出向いていただくのが確実です」
老夫婦はしばし相談(半ば婦人の独り言)していたが、意を決した婦人が9号車へと向かった。しばしの静寂。婦人の帰還。「車掌に伝えてきたわ」と言うと、また2列部分と3列部分を往復。
少し経って、JR側の人間(車内販売員や車掌ではなさそうだが不明)が婦人のところへやってきた。「お客様、現時点では、車掌のところには届け出がないそうです」「私がさっき届け出したのに」「あ、いえ、お忘れ物が見つかったという連絡が届いていないそうです。これから車掌がこちらの車両に向かう間に、各車両で声をかけながらやってまいりますので、見つかればそのときにお知らせします」「あら、わざわざ前もって知らせてくれてありがとう」
さらに少し経って、車掌が到着。「お客様、これまでの車両では見つかりませんでした。無くなったものの大きさやメーカーを教えていただけますか」「このくらい。メーカーはええと」「ブラウンとかパナソニックとか」「パナソニックだわ」「ではその情報をもとに引き続き探します。念のため、お客様のお荷物をもう一度確認していただけますか」「じゃあこれを見てください」「いえ、私どもがお荷物を触ることわできませんので、お客様ご自身で確認していただけませんか」「あらそう。いちど見たんだけど、仕方ないわね。…アッター!ゴメンナサイネ!この人が無くなったって言うもんだから」「見つかって何よりです」
清水義範の小説に出てきそうな一幕でした。

ところで、わたくしは、無くなった(とされるもの)がひげ剃りだと知れた後、もし見つからなかったら「ほら、その男が怪しい。あのひげ。あれ剃りたくて盗んだのよ。車掌に相談しろなんて言って白々しい。そういえば何号車とか巡回がどうとか、JR側の人間でもないのに妙に詳しかったわね」などと言われるのではないか、もしそうなったらどうやって潔白を証明しようかと被害未遂妄想していました。