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命拾いのことを語る

今朝、勤務先への途上の橋を渡りきると、その先の横断歩道の信号がちょうど赤になりました。横断歩道の向こう側には、私と同様にちょうど赤信号につかまった人物が一人。私よりは年上に見える紳士で、私が花柄シャツにカーゴパンツ着用の無精髭面であるのに対して、ワイシャツにスラックス、髭は剃られ、白髪をきちんと撫で付けているといういでたち。もし「外見で判断して信用できるのはどちらか」と問われたら、私なら私は選びません。しかし、その紳士におかれましては、ああ、これは画竜点睛を欠くならぬ描くということでしょうか、スラックスの上部中央、俗に言う股間から、ワイシャツと同じ色の布が覗いているのです。
思わずいったん視線を外し、自動車の流れを観察する風を装いつつ、あと1分もすれば訪れるであろう紳士とのすれ違い時にとるべき振る舞いについて思いを巡らせました。
考えてみれば、私は同様な状況にある他人と接した経験はあれど、指摘したという記憶がありません。いつか気づくだろう、誰かが指摘するだろうという、他人任せの方針を取ってきたのです。また、そのような状況に陥った際、一対一ではなく、こちらが多数派であったように思いますから、他人を頼りやすい状況だった。しかしいま、横断歩道を挟んで彼我は一対一なのです。試練です。
どのように知らせるのが妥当なのか、これまでに見聞きした知識を辿ります。当該箇所を見やることで気づきを促す方法。指差すのはあげつらうようなので不適切なはず。言葉で知らせる場合は、直接的なものを選ぶべきか、ソーシャルウィンドウといった隠語を使うべきか。相手を見据えて伝えるのか、すれ違いざまに耳打ちするのか。臍の下に意識を向けさせるには、丹田呼吸法というやつがあったはず。
考えがまとまらないまま時間は経過し、横断歩道を横切る車道の信号が黄色から赤へと変わります。紳士の後ろには、ほかにも信号が変わるのを待つ人々が集まってきました。ああ、一対一の場合の伝え方さえまとまっていないのに、状況が変わってしまった。
そして、横断歩道の信号が青に変わりました。ええいままよと一歩踏み出すわたくし。
対岸の紳士は、どうやら自分で気づいてシャツを引っ込めてから、横断歩道に進入し、私とすれ違いました。