横からいきなり、失礼します。
ここまで、とおっしゃってるのにごめんなさい。
わたし自身が
>多数派には欲望の自由がないと言っているに等しい
に、「もやっと」したので、考えてみました。
わたしは個人的に、
「そうは言っても多数派がそれを唱える場合、現実への抑圧として機能しうる」、
と思っています。
百合のおはなしではないのですが、自分自身のいろんな状況で、大勢の声って怖いって思うことがあるからです。
それでも「個人」が、自分の反対意見である、
「何々しか認めたくない立場もあるのだ」
と、表明するのは怖いことでもなんでもない。
そこには、大きな権力構造や抑圧がないから。
「異性愛者への12の質問」についての女性学MLでの議論http://macska.org/article/251
こちらの記事に、
「やっぱり、異性愛の権力性を指摘するのは大切だけれど、教室内における講師と学生の権力関係にも気を配らなくちゃいけない」
自分としては、常にこうした「権力性」を自覚があれば、
小さな声を殺さずに議論をつづけることができて、
それが一番いいと思っています。
って、そういう「もやっと」じゃないかしら?
見当違いのことでしたらごめんなさいです~(汗)