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超短編のことを語る

 結婚しない男
 
 人間四十にもなって独身でいると、世間での風当たりがやけに冷たい。しかも、なにか酷く都合が悪いことであるらしい。
 とはいえ少なくとも彼本人は、なんの不満もない。料理掃除洗濯は同居の兄嫁が家族全員平等に面倒をみてくれている。また、その仕事場である工房は弟子と主が働きやすいようきちんと整理整頓できていて、金勘定にも不便はない。万事これでうまくいっているのだから、嫁を貰えと説得されるいわれはない。
 しかしながら、そう考えているのはサンドロ・ボッティチェッリ本人だけであるようだ。縁談を持ってきたのは彼を特別に贔屓にし、画家として今日の成功へと導いてくれたトンマーゾ・ソデリーニだ。この、ロレンツォ・デ・メディチの叔父にあたる貴族への恩義はあまりあるが、それとこれとは話は別である。そして、真実こころよりサンドロのためを思って世話を焼いてくれているだけに、事態はいっそう厄介なのだ。日ごろ顧客に押しかけられるのを少しも迷惑と思わない彼であるが、今日ばかりは、その細い眉が額の中心に寄っていた。
「ソデリーニさん、その話は以前にもお断り申し上げたはずですが」 
「いやはや前回はすまないことをした。あれは私が悪かった。美貌もなく学問もない、ただ金があるだけの成り上がり者の娘なぞ、君に相応しくないからな」
「いえ、その、そういうことではなくてですね」
「サンドロ、まあ聞きたまえ。今回は、私の遠縁にあたる貴族の娘なのだ」
「なにか、事情がおありですか」
 画家が下絵用の銀筆を手放して瞳をあげると、ソデリーニはその察しのよさに口の端をあげてみせる。
「足の悪い娘なのだ。だから君が彼女に会わずに断ってもなんの支障もない」
 なるほど、踊れもしない娘では同じ貴族の奥方におさまるのは難しい。サンドロはその娘に少し興がひかれ、同時に哀れを催し、ついで自分の傲慢に嫌気がさした。
「その娘は、君がどこかの家に長持を納めたと聞くと、わざわざ馬車をしたてて出かけるのだよ」
「では、その方のお輿入れの際は、ぼくのところで長持や化粧箱、衣装から婚礼の宴の装飾まで承りますよ」
「商売上手だな」
 いえ、まあ、とサンドロは鼻の頭をかいた。ソデリーニの遠縁ならいい商売になると踏んだのは事実だが、体よく断りを入れたつもりだった。
「そういうことでこのお話は」
「まあ、待ちなさい。持参金も山と持たせ邸宅も用意するそうだ。なに、君の仕事には不便をかけない。家中のことは使用人にまかせればいい。器量は悪くないのだよ」
「せっかくですが」
「サンドロ・ボッティチェッリ、とりあえず、その娘の肖像画でも描いてやってはくれまいか」
 その瞬間、嵌められたことに気がついた。絵の依頼となれば、正面から断りづらい。
「その気がないのはわかったが、君に絵を描いてもらえば、その娘の縁談もまとまるかもしれんじゃないか。忙しいのは知っている。仕上げは君じゃなくともいい」
「……そんなわけにはいかないですよ」
「そう言ってもらえると有り難いね。では、料金は先方と交渉してもらおうか。ふっかけてくれて構わない」
「では、遠慮なくそういたします」
 ふたりは昔からの馴染みらしく、互いに目を見交わして共犯者めいた狎れ合いに笑みをもらした。
「先方に、明日にでも迎えをよこすよう言っておく」
「明日とは急ですが、ご注文を受けた者としては、お断りする理由がないわけです」
 画家の、無駄としか言いようのない僅かながらの抵抗とそのしかめ面に大いに笑い、ソデリーニはふと真面目な声でたずねた。
「サンドロ、君はどうして結婚しないのだね?」
「ぼくには、愛するひとがいないからですよ」
 サンドロは、そう言って微笑んだ。
 ソデリーニは黙ってその顔を見つめたが、画家はもう、羊皮紙に目を向けている。その伏し目がちの横顔は彼の描く聖母像に似て、憂いを帯びてひたすらに静謐であった。

 1510年5月17日、サンドロ・ボッティチェッリは生涯独身のまま没す。「結婚」の寓意画と見做される『春』を描いた画家は、同時代の人々に陽気な独身主義者と思われていた。その恋人の名は知られていない。
 
 了