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花うさぎのことを語る

  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」5----- 
  •  あの男と一緒に過ごした日々を鮮烈に覚えている。そう記して己は首をかたむけた。よくよく思い出してみなくとも一緒にいたのはたいして長い時間ではなかった。はたして若かったからだろうか。昨日のことのようにとまでいうと大袈裟だが、少なくとも何事もぼんやりとした輪郭をまとうほど鈍くなった近頃とはやはり違った。

     ごくたまに呼び出しの場に当の相手の姿のないことがあった。そういうときは置き去りにされた取り巻きどもが聞きもしないのにさっき誰其と出て行ったと説明し憫笑を投げてきた。嫉妬まじりの揶揄に男の尻を追いかける趣味はないと反論するのは憚られた。これが俗に云う金魚の糞と呼ぶものかと可笑しかった。御苦労なことで。そう労ってやって以降だれも声をかけてこなくなった。清々したが当の本人に糞味噌にこきおろされた。馬鹿を相手にする奴が馬鹿だそうだ。もっともなはなしだが己は馬鹿でなければこんなところに来ないと言い張って片手で追い払われた。紅い唇にうかぶ冷笑は嘗てみたこともないほどに凶暴で、ざわりとした何かが鳩尾を襲った。

     書き出してみると己はよくあの男の様子を憶えていた。映写機でうつしたように見えるのは己なりにわかりやすい「形」を与えてしまっているのやもしれない。なるたけそうでなくやりたいのだが。
     むつかしい。

     馬鹿は嫌いだと言って憚らない男だった。当り前じゃないですかとぼんやり言い返すとみなが自分より強く賢いものを愛するわけじゃないと呟いた。ふいに絹シャツの襟をゆるめ、我々は言うまでもなくそちら側に奉仕する人間だともつけたした。どこか放心したようだった。

     そのものいいに釈然としないことが度々あった。あれだけの使い手にしては凡庸におもえた。
     何が気に障り何が気に入るのか。当時の己には掴めなかった。今なら可能だともおもわないが。

     あの男は男女関わらず気に入った相手なら誰とでも寝る趣味もまた隠さなかった。しかも己はあの男の〈寵愛〉を恣(ほしいまま)にしているとみなに思われていた。無理もない。三日続けて拘束された噂はまたたくまに広まった。あの男の誘いを振り切って逃げ取り巻き連中に痛い目に合わされてはたまらない。ひそかに脅しは受けていた。それなりに場数は踏んでいたつもりだが怖いものがないといえるほど物知らずではなかった。まして取り巻きよりも、当人が恐ろしかった。あの男はなにも怖いものがないという貌をしていたるところを自由気儘に闊歩した。

     くりかえす。夢使いである事実は秘密にした。
     その分だけ、己とあの男の関係は淫靡にうつったことだろう。己は、己の抱える孤独をそれまで知らなかった。知らなかったから相手のそれも推し量ることすらできなかった。実のところようやく言葉の通じる相手に出逢った僥倖に溺れていた。
     あまりにも無知だった。若かったと言い訳はしまい。

     そういう己がその場で待つこともなく帰ると後になってあの男は不満顔で呟いた。わざわざ付文をやったのにいなくなるのはきみだけだと。恨みがましげな流し目を避けるようにこれでも忙しい身ですからと頭をさげた。あの男は背を覆うほど長い髪を片手ではねあげて待つ悦びも知らないとは無粋だねと哂った。田舎者ですからと微苦笑をうかべて認めるとあの男はふとからだの力を抜いて真顔になった。なにを言い出すものか危ぶんだ。こんな顔をした後いきなり黒塗りの車に押し込まれて歌人の屋敷に連れて行かれた。弟子らしく殊勝な風情であったせいか、そのときばかりは年相応に見えた。
     己は少しばかり身構えて相手の顔をのぞきこんだ。

     いつか、きみのいう田舎とやらにいってみたい。

     どうぞと気軽にこたえた。なんのことはないはなしだった。夏休みに泊まりでおいでなさい、あの一帯を車で案内しますよ。そう返すと珍しく屈託のない様子で嬉しそうに口許をほころばせた。

     だが、その約束は果たされなかった。