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花うさぎのことを語る

  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢も見ない」8------
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     彼女は明らかに呆れ声だった。はなしの噛み合わなさに途方に暮れているみたいだ。いっぽうおれは笑いを噛み殺すのに苦労した。このひとのこの調子に、おれだってどれほど悩まされたことか。
     そんなわけで電話の向こうでは彼女がまだ何か説明しようと躍起になっていたけれど、このひとはそれを押しとどめるべく諭すような声でつづけた。

     にんげん疲れてるとろくなこと考えないよ。とにかく休むといい。遠く離れていても君の処に届くよう、君のためにとっておきの香音(かね)を鳴らすよう努めるから。

     まるで、そういうときのために自分がいるのだとばかりの声音だった。そして、たしかにそれは「夢使い」のもっとも正当な役割だったに違いない。彼女もそれに気がついた。言葉ではなくその態度が、それを明らかにした。このひとの、じぶんが何者であるかいつなんどきでも忘れることのない、その誇らしげでいながら少しも居丈高なところのない自然な態度そのものに圧倒されていた。
     おれも、そういう意味ではおなじだった。このひとはいつも変わらない。じぶんの役割を、その立場を、夢使いとしての本領を、愚直なほどまっすぐにただひたすら生きていた。
     そして、電話の向こうでは彼女がすっかり緊張を解いたらしい。嘆息まじりの声が漏れ聞こえた。

    わかった……お願いする。

      それを耳にしたこのひとが安堵の吐息とともに頷いた、そのときのことだった。

     おい、弟子よ。それは己の役目だ、出しゃばるな。
     師匠……!

     よろこびに顔が照り輝く。たぶん彼女より、このひとのほうが今この瞬間、師匠の登場を期待していたに違いない。おれはそれを黙って眺めながら我知らずほうっと息をついて再びこのひとの肩に寄りかかる。彼女の居場所はどこであろうとわかると豪語していたのだからそろそろ来るころだと想像していたが、場を心得すぎている。物陰で会話を盗み聴いていたんじゃないかと疑うレベルだ。とはいえ現実そんな余裕はないはずだ。まあもちろん、夢使いとしての特殊な能力がなくとも彼女の行動なら知れたことだろう。

     己が遅くなったせいで面倒をかけたな。
     いえ、そんなことは。
     ちょっと、なんで勝手に割り込んでるのよ! それになんで今ごろっ。こんなふうにあとつけてきたなら途中で連絡くらいくれたっていいのに!
     デンワに酒こぼしたら駄目んなったんだよ。

     それを聞いたこのひとの目が見開かれた。それから小声で、ほんとに動揺してたんですねと呟いた。おれがどうにか聞き取れたそれを師匠はしっかりと聞きとがめた。

     聴こえたぞ。お前、師匠に対していい根性してるな。
     ちょっと、いい加減にしてよ! いい根性も何も、あたしより先に彼と話すってどういうことよ? 
     いいんちょう、いや、それは、そういうことじゃなくって……。

     しどろもどろで説明しようとするこのひとに、おれは吹き出しそうになるのをどうにか堪えた。ほっとけばいいとお節介をやくのもやめる。電話の向こうでは彼女が、そういうことじゃないってどういう意味よと問い詰めている。実のところおれもそこは問い質したい気がしたが、師匠に割り込まれた。

     おまえこそなんでおれの弟子と話す。いいか、あいつはおまえのものじゃないんだよ、おれのほうを向いて今は黙ってろ、おまえの言い分は後で幾らでも聞くし一晩でも二晩でもなんなら一生かけて納得いくまで説明するから、とにかく今は弟子と話させろ。
     一生って……そんなの一生かけて説明しなきゃいけないことなの?
     当たり前だ。おれと弟子の関係をおまえが一番に理解しないでどうする。

     おれは吹き出したが、彼と彼女はともに絶句した。たぶん、それぞれに違う受け取り具合であっただろうが、師匠はその無言を都合よく受け取って気をよくしたらしい。いかにもゆったりとした鷹揚な口調で「弟子」へと言葉をかけた。

     まあそういうことだ。色々とすまなかった。後は任せろ。おれの「仕事」だ。
     はい。

     生真面目な声を出そうとしながら肩を震わせて首肯したこのひとを横目で見る。お幸せに、とその唇がひそかに動いたのをおれは見逃さなかった。そのいっぽう、あちらは何か非常に騒がしいことになっていた。それはそうだろう。彼女は「弟子」ではないのだしそううまく丸め込めるわけもない。だが、おれはもう付き合う必要はないと横になった。あれはもうたんなる痴話喧嘩、いや犬も喰わないナントカにちがいない。勝敗の行方は決している。
     電話を置いたこのひとは、ふうっともういちど大きなため息をついた。それから一言、髪をくしゃっとかきあげながら漏らした。

     俺、少し意地悪をすればよかったかな。
     どっちに?
     りょうほう。

     そう言いながら覆いかぶさってきた。おれは両腕いっぱいにこのひとを抱きとめる。それから念のため、訊いておきたかったことを確かめた。

     さっきのはなし、遠く隔てた距離にも香音をおろせるようになったってこと? 
     知らない土地じゃないし彼女のこともわかってるから出来るだろうと。
     あんな言い方しといて確信はなかった?
     いや。したことがないだけで、たぶん今の俺なら出来る。

     歴史上の夢使いの成し得た「伎」をこともなげに出来ると言い切った。おれは声も出せずそのかおを見つめたが、このひとは何を思ったのか照れくさいじゃないかと呟いた。それから目のうえに唇が落ちてきて頬を耳を首筋を、このひとの長い髪がくすぐりつづけた。

     そんなわけで、
     明け方まで、おれたちは夢も見ないで睦み合った。真夏の夜の短さを惜しむよう、お互いのからだに想いを刻みつけるよう夢中で。
     次の日、遅刻ギリギリで店長にどやされたのもいい想い出だ。そういう日が、人生に何度かあってもいい。

                

      了