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花うさぎのことを語る

  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢も見ない」7------
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     眠らないよう互いに気をつけていたはずがうとうとしていたようだ。メールの着信音で飛び起きたのはふたり同時だった。彼はそれを目にし、あーと呻いて長い髪をかきあげた。どうやら師匠は家にいなかったらしい。彼は頭を振りながらむずかしい顔をして電話をかけていた。おれはその背中にぺたりと頬をおしあてた。興味本位なだけでなく、やはり気にはなった。彼女なら、いっそゴシップ記事でも読むように盗み聞きされたほうが清々しいというかもしれない。おれのみっともない「優越感」を察知するくらい感受性が鋭い。その程度には、彼女のことを理解しているつもりだった。  
     おれはこのひとを彼女から引き離したいと願ったことがある。このひとが彼女を望めば諦めて身を引くことを考えたくせに、店長がふたりを会わせようと工作する「お節介」を恨めしくおもった。店長はこちらの気持ちなど御見通しで、随分と後になっておれを小突いた。おまえ図太いくせに意外に嫉妬深いよな、と。おれとこのひとがぎくしゃくしてたときのこと、コンビニの事務所で会の発起人の動静をおれに訊ねてのち、俺に言いたいことあるなら言えよと片頬で嗤った。しかも、聞いてやるから、と続いた。嫌なおやじだ。おれは黙っていた。軽口で応酬できなかった。それこそこちらの内心など十二分に伝わっていただろう。いま思えば、そんなにあの政治家のことが気になるのですか、とでもあのニヤケ面に吐いておくべきだった。次に同じようなことをされたら遠慮なくそうしてやる。このひとが鈍感なのをいいことに、なにげなく触りまくっているセクハラにおれが気づいていないとでも? 
     余計なことを思い出して独り勝手に腹を立てているおれの隣でこのひとは、やけにやさしい声で、お疲れさま、思ったより早かったね、だなどと彼女を労うことばを幾つもかけている。おれと話すときと違いすぎてなんだかおかしい。それだけでなく、それはそれでおれに奇妙なくすぐったさをもたらしている。このひとは、彼女の前であんな呆れ顔で眉を顰めたりしないだろう。馬鹿を言うな、という表情もみせないはずだ。おれと彼女のタイプがまるで違うせいもある。だが、それだけじゃない。おれはそれをおもってひとりでに頬が緩むのをとめられなかった。
     そして、当のこのひとはというと、真夏の夜の闇のなかただひとり取り残されている彼女へと、どう話したらいいかわからないという顔つきでいながらも、核心にいたることばを発した。

     君、だいじょうぶ?
     大丈夫ってべつに何もないから大丈夫よ。
     いや、その……。
     ごめんなさい。嫌味な言い方をしちゃった。ほんと、何処に行ったのかしらねえ。電話もあいかわらず通じないし。なーんかヤル気なくなっちゃったわよ。駄目ね、これ。
     駄目って、せっかくそこまで行ったのに……
     せっかくっていうけど、こういうのってタイミングっていうか勢いじゃない? なんかもうどうでもよくなっちゃった。

     それを聞いたおれの恋人の背筋がのびた。思わずその横顔をのぞきみる。眉間に皺をよせ、決然とした顔つきで息を吸った。おれはひっそりとその横で期待に胸を躍らせる。

     僕の師匠は一度口にしたことを翻すような男じゃないよ。勢いだけでものをいうようないい加減な人間じゃない。君だってほんとうはわかってるはずだ。
     それは……
     君が大変な想いをしてきたのは察してるよ、今夜だって夜中にひとりで車を運転したりしてすごく頑張ったとおもう。それに師匠が女蕩しだったのも確かに事実だ。僕もその点に関しては釈明のしようもない。けど僕の知る限りじぶんから結婚を言い出したことは過去一度もないはずだ。いつも相手から言い出されて揉めてたみたいだった。君も、そこまで行ったんだからもう少し待ってみるべきだ。せめて師匠の顔を見て何か言ったらいい。決断はそれからで遅くないはずだよ。どうせ君の言い分をひとつも聞かないで出て行ったんだろうから。
     う、ん……なんでわかるの?
     それは師匠との付き合いが長いから、ていうんじゃなくて一般的にそんなものだろうな、と。僕も同じことをしたし。
     けどあたし、あなたには帰れって言ったのよ? あのひと、待ってって言ったのに出て行ったの。待ってって何度も頼んだの。なのに出てったの。だからもう遅いよ、だって連絡もつかないのよ? 気になるなら電話くらい出てくれるものじゃない? あたし、きっと嫌われたんだとおもう。

     電話の向こうで泣くのをこらえている気配を察した。彼は、そのかすかな息遣いに耳を傾けている。おれはその肩に体重を預けるのをやめてケイタイを握っていないほうの手にじぶんの手を重ねた。彼の手がおれの手をぎゅっと握りかえす。汗で濡れているのは暑さのせいだけではないと感じた。
     彼は暗闇に目を凝らすようにして呼吸を制御しているようだった。何か口にするタイミングをはかっているというより、彼女の悲嘆に身を添わせようとしていた。それからおもむろに、

     大丈夫だよ。

     と口にした。それは、おれからしてもいささか唐突に聞こえた。彼女にしたらもっとそうだっただろう。

     大丈夫なわけないじゃないっ。

     悲痛な掠れ声がかえった。ほとんど泣き声のようだった。おれはいたたまれなさに目を閉じた。けれど彼はそれを意にとめなかった。いつもの落ち着いた声でもういちど、いかにもこのひとらしい辛抱強さでくりかえす。

     大丈夫。あのひとの弟子だった僕が言うのだから間違いない。本当に。
     でもっ。
     でもじゃなくて僕の言うことを聞いて。とにかく君は、すこし眠ったほうがいい。ご実家じゃなくて、車が置けて君が安心して休めそうなところどこかあるかな。
     休めってそんな言い方って無責任すぎるよ、大丈夫とかなんで言えるの、どうしてそんな落ち着いてるの? ひとごとすぎない?
     他人事じゃないよ。僕の大事なひとたちのはなしだ。
     だったらもうちょっと真剣に聞いてよ。
     僕は真剣だよ。それに、どうしてってそりゃ、師匠のことも君のことも信じてるから。
     信じてって……