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歓びの野は死の色すのことを語る

「姫さま?」
「だからそう呼ぶなと申しておる!」
 声をあげて見据えると、男はなにも聞かなかったような顔で続けた。
「おかけになられたらいかがですか」
「そなたにいわれなくとも座るさ。ここはおれの執務室だ」
 立ったままのそいつの横をすりぬけて樫の木でできた大きな執務机へとむかう。
「失礼ながら、ここでお仕事をなさっているようにはお見受けできませんが……」
 彼は腕を組み、ため息をついて室内をぐるりと見渡してみせた。おれは机のうえに花瓶をおろし、両手を腰においてしみじみ部屋を眺めてみた。
 いやはや、惨憺たるありさまだ。
 この部屋には死亡確認記録書の一枚もない。というよりも、書棚からはこの国の人間の出生記録、葬儀の式次第綴さえも失われている。略奪のあと著しく、鍵と鎖だけが残された場所はあまりに無残で寒々しくはあるが、隠すものはなにもない平明さは清々しくもあった。つまりは秘密も何もないから、この男はここへすんなり通されたのだ。
 おれは椅子に腰かけてから問いかえす。
「おれが干されていると皮肉るのがここへきた理由か?」
「滅相もない」
 長身の男は首をふって否定した。そのせいでくせのある褐色の巻き毛が頬にふれ、彼はそれを気にして耳にかけた。その、神経質そうな身振りをじっと息をつめて眺めていた昔を思い出す。十歳から二年ばかり、おれはこの男の教え子だったのだ。
 おれはいま、不遇をかこっている。
 葬祭長などという名誉職を与えられたが、この国の主、つまりはおれの父親でも亡くならない限り、このおれが葬儀をとりおこなうことはない。
 それが、おれのこうした物言いや男装のせいであれば構わない。十年間の帝都留学からもどってきた「エリス姫ご乱心」に由があるのならば、納得する。
 だが、真実はもっと複雑だ。
「宰相ゾイゼ殿は、貴女様に仕事をさせたくないようですね」
 この略奪――現実はもっと穏当な言葉ではあったが――を示唆したこの国一の権力者の名に、おれは肩をすくめた。
「せっかくモーリア王国と懇意になったところで、帝国風を吹かせたくないのだろうな」
「あの方の出自はもともとあちらの国ですから」
「余所者は信じられないと弾劾する気か?」
 こちらの冷笑にも、彼は穏やかに返す。
「この十年の平安は宰相閣下のご尽力の賜物でしょう。公爵様が病に倒れられゾイゼ殿を宰相に据えて以来、この国は帝国でなくモーリア王国寄りの状況でした。しかもあの方は死の女神を奉じながら、その恩寵は信じておられない」
「それはおれも同罪だがな」
 吐き捨てた本音を、彼はかるく受け流す。
「貴女様はちがいます」
「そう断じる理由は何だ」
 おれの問いかけに、彼は昔懐かしい笑顔でこたえた。
「それは、私よりも《死の女神の娘》である貴女様のほうがよくご存知のことでしょう」
「どうだかな」
 かぶりを振って否定した。以前なら素直にわが身をかえりみただろうが、もうその手にはひっかからぬ。
 ルネ・ド・ヴジョーは帝都の学士院で学び、皇帝陛下から直々に神官職に任命されて帰国した。それからすぐ十八歳でおれと兄オルフェの教師になった。おれが十二歳で帝都に旅立ってから二年後に結婚し、すぐに妻と死に別れた。
 そして今、毎夜ここに訪れては、おれを守護する女戦士たち全員に焼き菓子と早咲きの金雀児の枝をくばり、神殿騎士たちのために牛を一頭おくりつけ、ヴジョー伯爵らしい気前のよさを披露して人気をあげている。
 星明かりだけの室内で、三本立ての燭台にはろうそくが一本しかたっていない。闇を統べる死の女神が炎を好まないという理由もあるが、事実は貧窮しているのだ。
 おれにはまっとうな禄がない。葬儀を執り行うことができなければ、実入りはない。
 皇帝陛下のおふざけで公爵位を授けられているが、封土がないのでどこからも上がりはない。また、神官職としての禄はぎりぎりここにいる人間たちを養うだけで精一杯だ。公爵家の姫君としてのそれは、おれの帝都での滞在費にたち消えた。
 いってみれば、おれは持参金もない嫁ぎ遅れた貴族の娘そのもので、どこかの神殿で養ってほしいくらいの立場にある。
 彼はそれをよく知っていて、この一週間、花だの本だのと一緒に番の鶏や蜂蜜、ひいた小麦の袋まで自ら担いで運んできた。世闇にまぎれ供も連れずにふらりと来ては、他愛ない話を半刻ほどして帰っていく。その心遣いには感謝している。
 昔から、そつのない人物ではあった。
 今日はすこし趣が違うのは、この惨状を目の当たりにしたせいだろう。
 女戦士たちは賢明だ。おれが未婚でいる間は皇帝陛下の命令で守護しないとならないが、結婚後はその義務はない。
「お尋ねしますが、あの女戦士たちのなかには女王陛下の姫君がおいでなのですか?」
「ああ、末娘のアレクサンドラ姫がいる。みごとな赤毛のむすめがそうだ」
 思い出すように伏せられた顔へと、
「誘惑されたか?」
 そうぶつけると、苦笑した。
「剣を持って彼女と戦えというのがそうでしたら、恐らくは」
「それは重畳。帝都でもアレクサンドラ姫が声をかける男は滅多にいなかった。自信があるなら相手をしてさしあげるといい」
「ご冗談でしょう?」
「冗談ではないさ。彼女に勝てば王様だ。負ければ首を斬られるって話だがな」
「私の聞いた話では、もっと不名誉な処罰だったかと……」
 男性器官の切除のことか。
 顔をあげると、かつての教師はすこし気後れしたように横顔をみせた。
 女戦士たちに関するくだらない風聞には困りものだ。王女が自分より強い男を国に連れて帰るのは事実だが、それ以外では顔を赤らめるばかりの与太話がまかり通っている。
 ルネのような男でもあんな噂を信じるのかとひそかに驚きながら、
「十五の小娘に負ける気か?」
「近ごろ剣など滅多に振るいませんからね。もとより争いは嫌いですし、得手でもありません」
「十年前の馬上槍試合ではみごと下から勝ちあがったではないか」
「あれは、貴女様が一番になれとおっしゃったから……」
 途中で彼は、言うべきことではなかったという顔をした。
 おれも、同様に感じた。
 この気まずい沈黙をはらうのはこちらの役目だろうな。おれは笑顔をつくって語りかける。
「それでも、兄のオルフェに華をもたせてくれたのだったな」
「いえ、殿下の実力ですよ」
 かぶりをふって否定したのでもう一度、微笑みかえす。
 最終戦は出来試合だったと公国のみなが知っていた。祝祭とはそもそもそういう類のものなのだ。
 オルフェは心臓に負担をもって生まれてきた。そのため長時間の激しい運動は禁止されている。異国の生活にも不安があった。
 だからおれが、帝都への留学を引き受けた。