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歓びの野は死の色すのことを語る

「ルネ」
 応えはなかった。
 立ったままの相手を見あげ、おれは続けた。
「手紙をもらったのに返事を書かなかったのは悪かった。すまないと思っている。だが、あちらでの生活が楽しくて、そなたのことなど忘れていた」
「それはもう」
「ああ。すんだことだ。だが、おれは自分でちゃんと謝りたかっただけだ。そなたの教えは役に立った。おれは田舎者呼ばわりされずにすんだ。感謝している」
 かたいままだった表情がようやくにして緩む。
「それはようございました。私もお教えした甲斐もあるというものです。であれば」
「たとえ頼まれても、女言葉は使わぬ」
「なにゆえに」
 険を含んだ問いかけだったが、おれは気にせずこたえた。
「厭いた」
「飽いた?」
「ああ。もう、嫌になったのだ」
「ご自身の評判が地に落ちようと気にしないとおっしゃいますか?」
「そんなものは、おれが十二で皇帝の寵姫となったときに底をついているのかと思っていたよ」
 このときばかりは、彼の眉がわずかに寄った。おれはそれに満足して、ゆっくりと言葉をついだ。
「ルネ、そなたが結婚したことを恨んではいない」
 それでも彼が無言でいたことに安堵して、おれは続けた。
「約束もしなかったし、待ってほしいとも頼まなかった。実をいうと、知らせを受け取ったとき悲しくもなかった。不便はないか辛いことはないかとくりかえし書かれているのを見て、笑ったよ。おれはこの世の真ん中にいて、幸福だった」
 嘘ではない。
 真実、おれは幸せだった。
「それに、おれがもしも悲しいと、辛いと返せば、すぐにも助けてくれるとでもいうのか? おれは生きていくのに精一杯で、ほんとうにそれだけに夢中で、故郷のことなど忘れていた」
「私は……」
「奥方は残念だった。結婚して間もないうちに病で亡くなられたそうだな」
「ええ」
 伏せられた瞳に影がよぎる。似合いの夫婦だったとオルフェから聞いていた。
「再婚するつもりはないのか?」
 おれの質問に、彼は目をみひらいた。
 実をいうと今日の会談は彼の母上、ヴジョー伯爵夫人からの申し入れがあって受けたのだ。頼みの独り息子が結婚しなくて困っていると泣きつかれては、かつてさんざん世話になった手前、断りづらい。
 ひと呼吸おいて、彼はこちらを見つめた。
「そうですね、貴女様がしてくださるなら考えないでもありませんが」
「真顔で冗談をいうな」
「もちろん、冗談ですよ。安心してください。わかっています。どうせ母の差し金でしょう」
 隠してくれとは頼まれなかったので首肯すると、まったくあの方は、そうつぶやいて椅子に腰をおろす。それから思い出したようにこちらの顔を見て、
「もしや、貴女様にも何か失礼なことを申し上げたりしなかったでしょうね?」
「いや、そなたほどはっきりとは言わなんだ」
「私のほうが酷いことを口にしてますか?」
 おれは笑いをかみ殺してこたえた。
「いや、有り難いぞ。おれの評判が地に落ちたと面とむかって口にしたのはそなたが初めてだ。父上でさえ、おれを腫れ物扱いだからな」
「……それは、あんな屈強の女戦士たちを両手ほど従えていては無理もありません」
 彼はちらりと扉のほうへと目をむけ、好奇心もあらわに尋ねてきた。
「神殿騎士たちが軒並みのされたという噂は本当ですか?」
「それは、どうともこたえようがないな。否定しても肯定しても、おれの得にならん」
「そうですね」
 ひきさがる顔でうなずかれ、ここで会話を打ち切ろうとしたところで。
「この今も、皇帝陛下を愛しておいでなのですか?」
 そう、問われた。
 おれはべつに息を止めたりしなかった。誰かには、いや、この男には尋ねられるだろうと想像してきた。
 おれはゆっくりと息を吐いてから、いくども考えてきたことばを紡ぐ。
「美姫や寵童が咲き誇る百花繚乱の宮殿にあって、おれはそのなかでもっとも愛される『花』でありたいと願い、それができなくてやめたのさ」
 かつての恋人は、こちらの顔をじっと見た。
「おれは花ではない。花になぞ、ならんよ。しゃらくさい」