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歓びの野は死の色すのことを語る

花 2

「そのお姿は皇帝陛下からのお指図によるのですか?」
 ヴジョー家の男は立ったまま、こちらを見おろしてたずねてきた。気遣わしげな瞳と、くせの強い褐色の髪は昔のままだった。
「指図はない」
 おれは彼の横の椅子に視線をやって、座らせた。あの頃は、もう少し身体全体が薄くてもっと華奢なように感じたが……この男も三十になろうとするのだから、変わって当然だ。おれも相応に、少女から大人の女になっているはずなのだ。
 夕食を前にしてなんとなく口寂しいので砂糖菓子でも用意させたいのだが、ここではそう簡単にはいくまい。鈴をふって望みをいえば、何でも出てきた宮殿とは大違いだ。
 あのひとは、爵位はくれたが封土はくれなかった。吝嗇だと罵れば、ならば自力で奪い取れと金色の目を輝かせてそそのかす。
「では、何か自然のふるまいに反逆するご意志でもおありなのでしょうか?」
「ひとつ訊くが、自然とは何ぞ」
 用意されていたピケットに口をつけた。葡萄酒の搾りかすに水を通しただけのしけた飲み物だが、意外にいける。
「世の中には女性と男性がおりますのでその違いに応じた服装や言葉遣いがあるかと」
「帝都の宮殿では陛下の小姓たちはみな女よりもきらきらしく着飾っておったが誰も何も言わなかったぞ」
「それはそうでありましょう。皇帝陛下の寵を競えばそのようなことも当然です」
「では、ここで誰とも寵を競わずにすむおれが好きなようにしても問題なかろう? 実際このキュロットというやつは至極便利だぞ。馬に乗るにも面倒がない。まあ、そなたは知っておろうが」
「そういうことではなくてですね」
「おれがこの格好を通していると誰にどのような影響を及ぼすのか、はたまた迷惑がかかるのか委細述べてみよ」
 彼は小さく息をついてからこたえた。
「まずは貴女様の兄上様に。再来月、ご結婚予定のオルフェ殿下の恥となりましょう」
「おれのおかげで皇帝陛下の姪と結婚できるというのにか?」
「……それは、貴女様の働きのおかげではありません。この国が川向こうのモーリア王国と結託して帝国を脅かすことのないよう、または裏切らぬように陛下が楔を打ちこんだだけのことです」
 とうにご存知のことでしょう、とつけくわえられそうな語調にはおぼえがある。この男がおれの語学の教師だった時代の言い口だ。
 おれを、十年前と同じ十二歳の小娘だと思うなよ。
「オルフェは許してくれている」
「殿下は帝都への『留学』を代わってくれた貴女様に恩義を感じておられますからね」
「いや、昔からオルフェはおれにやさしいのだ。そなたと違ってな」
 嫌味をいったつもりが、彼は昔懐かしい表情で微笑んだ。
 いつの間にか、西日が完全に《歓びの野》の向こうに落ちたようだ。室内が暗くなり、おれが目を眇めたのに気がついたらしく、彼が灯りを運ばせましょうかと立ちあがる。
「いや、それには及ばない。誰かが気をきかせて燭台なぞ運んでこないよう、外の女戦士に頼んであるのだ」
「何故ですか」
 ここにきてはじめて、不思議そうな顔をされた。
「ただ、邪魔をされずに昔のように話しをしたかったのでな」
 口にしてみると自分で思っていた以上に本心であるかに感じたが、彼は一笑にふした。
「ご冗談でしょう。会談を何度も断られたのは私の顔など見たくもなかったからではないのですか?」
「それも、ある」
 すなおに認めた。相手がなにか思いつめたような顔をしたその刹那、おれも悟った。
 彼も、会いたくなかったのだと。
 まあ、それも致し方ない。
 おれはこの男を捨てたのだし、この男もまたおれを見限ったのだ。