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花うさぎのことを語る

  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「夢の花綵(はなづな)」夢うつつ夢うつつ 28-----
  •  玄関の開く音がした。俺は飛び起きた。もしや彼がもどってきたのかもしれないと。
    むろんそんなことはなかった。そこに、弟子と教授が立っていた。よれよれのパジャマ姿をさらした俺にも弟子はきちんとお辞儀をした。それからいつもの調子でいった。
    「先生、アーモンドの花が満開だよ!」
     もう三月も末なのだと身体が思い出した。毎年彼と花見に行っていた。弟子はそれを知っているし、何もかもをわかったうえで何も聞かず、また言わずに、なんでもないような顔をして誘ってくれているのだ。行きたくないとこたえたくはない。うなずいて、教授へとこんな格好ですみません、掃除も行き届かなくて申し訳ない、すぐ用意しますからおかけになってお待ちくださいと述べた。弟子はもう靴をぬいでいたし、それで問題なかったはずだ。背を向けた俺がそこにしゃがみこまなければ。
    「先生、どうしたのっ」
     弟子の声が裏返り、いつも落ち着いてしゃべるこの子にいったいじぶんは何てことをしてしまったのかと悔やまずにはいられない。だが、視界が回転しどうにも立ちあがれなかった。
    「……眩暈ですか」
     教授がとなりに膝をついた。と同時に弟子が、先生からだ熱い、ぜったいに熱あるってば、と声をあげた。そう言われてみるとそういう気がした。というよりまさに風邪をひいていると自覚が襲いきた。立てますか、と声がかかりそれにこたえる前に、失礼、と声がかかって身体を支え起こされた。背後で弟子がお薬と体温計といって救急箱をとりにいった。いい年をして他人に抱き起こされてベッドへと連れて行かれ成人前の弟子に介抱されている。迷惑をかけるなといわれた言葉がよみがえり、恥ずかしさに涙がでそうでこらえるのに苦労した。
    教授が俺を横にして呟いた。
    「押しかけるようでご迷惑かと思ったのですが、来てよかったです」 
     いたたまれなさに、小さな声で謝罪をした。寝室に顔をだした弟子が、ねえ先生たべるもの買ってくるからそのあいだ教授をよろしくね、といった。そのものいいはないと口にする前に弟子は肩をすくめて畳みかけた。
    「だって先生に会いたがってたのは教授のほうだもの。でしょ?」
    「そうですね」
     苦笑がかえる。ふたりの間で視線のやりとりがあった後、じゃあ行ってくる、先生こんどとびきり美味しいもの御馳走してね、と弟子が出ていった。
     そうして扉が閉まってすぐに教授が隣のベッドに視線をなげた。俺はそれを見ないふりをした。あさましい執着、彼をおもって自分を慰めるみっともない痴態を硝子越しのひとみに見抜かれたような気がしたが、今さらどうしようもない。ところが、教授はひとつ吐息をついて、べつの誰かに話しかけるようにして囁いた。
    「ここで待っていても彼は帰ってきませんよ」
     心臓が掴まれたように痛い。息苦しさに相手の顔をみる。まさかいきなりそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
    「しばらくここを出ませんか。不在を突きつけられるだけの、がらんどうになった場所に囚われていては忘れられるはずもない。忘れたくもないのでしょうけれど、それでは彼がしたことの意味がない」
     なにも、返せなかった。
     意味、というのもわからなかった。いや、まったくわからなかったわけでもないのかもしれない。迷惑をかけるなと言い残した彼は、こうした俺の至らなさを憂いていたはずだった。 
    「これでも、仕事はちゃんとしてるんですよ」
    言い訳には、教授は何も言わずにベッドの横に膝をついた。そして俺の目をじっとみていった。
    「あがないだけがあなたの全てと言いたいのはわかります。あなたにはまぎれもなく〈真実〉でしょう。けれど、現実的にいうとそれにはうそが混じりすぎていて受け入れがたいです」
     俺のどうしようもない弱さとそれゆえの羞恥を、教授はやわらかな微笑みでたたえた。
    「私はそういう無茶苦茶なことを言い出すひとたちが大好きで、こんな仕事に就いてしまった。しかも、実のところその嘘の片棒担いでるぶん、じつに厄介な罪作りです」
     その、妙にとぼけたような、はたまた諦めたような言い様がおかしくてわらった。すると、
    「ああ、あなたはわらっていたほうがいいですね。あなたがわらっていてくれたらいいとおもうひとがこの視界にはたくさんいますよ」
     かもしれない。そうおもったのに俺は泣いていた。
    「すみません……」
     顔を覆う。指の間から涙がこぼれた。嗚咽をこらえきれずに身体をうつ伏せる。人前だというのに涙を制御できない。ひとりになりたかった。けれど教授はそこを動かない。口に出してお願いしなければならないのかと考えたと同時に、
    「我慢しないで泣いてください。仕事で慣れていますから気になりません」
     それを聞いた俺は顔をあげてうなずいてみせた。このひとにとってこれも仕事なのだ。弟子のひとことと彼の言い残していった言葉を思い返しながらたずねた。
    「何か、ご用事があってお越しになったのではないですか」
     気持ちを切り替えたのを察した相手は一瞬、どうしようか躊躇う顔つきで俺をみた。
    「横になったままで失礼いたしますが、どうぞ、おはなしください。熱で魘されておはなしがわからない、という状態ではありませんから」
     そう伝えると、眼鏡の蔓に触れてまた吐息をついてから切り出した。
    「ではお言葉に甘えます。いくらなんでも今日はさすがに無体のしすぎでしょうから、また後日お時間をいただきたい。お察しのとおり、研究センターにご協力願いたいという申し出です」
    「お受けするとの約束は致しかねますが」
     そこで言葉を遮られた。
    「あなたには、必要なことです」
    「必要……」
    「私の臆測にすぎない、というだけでなく、あなたの叔父上もそうお考えだったともつけたしておきます」
     頷くにとどめたが、いくらか構えずにはいられなかった。その緊張をとらえたのか、教授がちいさく肩を揺らした。
    「そのはなしは断っていただいても構いません。ですが、その件とは別に、またこちらにお邪魔してもよろしいですか」
     個人的な研究のはなしがあるのだろうか。またはあがないの依頼か。
    「センターではご都合の悪いお話しなのかもしれませんがご覧のような有様でしばらくまともに家事をしておりません。今のままではひとさまをお招きできるような状態ではないと思います。あがないのご依頼等でしたらこちらから何処へなりともお伺いいたしますが、今はまだそのお申し出は受けかねます。仕事に出るには出られるのですが、家にいると何をしているのか自分でもわからないくらいなものですから……」
     教授は落ち着かなさげな表情でこちらの言い訳を聞き、ついには何故か、笑い損ねたような顔をした。そして、
    「……いや、その、こちらこそすみません。なるほど、そういう手もありましたね。ともかく今日は、突然お邪魔してすみませんでした」
     深々と頭をさげられて俺も同じようにしようと起き上がろうとすると、寝ていてくださいと慌てたようすで肩を押し伏せられた。ちかくなった顔に微笑みかける。
    「ご迷惑をおかけしてすみません。わたしはもうだいじょうぶです。弟子にもそう伝えていただけると助かります。少し、眠りたい」
     教授はだまって頷いておれを独りにしてくれた。

     三日後、弟子がひとりでやってきた。珍しく神妙な顔をしていた。俺は何も聞かずにお茶をだしてやった。一服したあと、先生のお茶、いつも美味しいねとようやくわらった。それからこちらをまっすぐに見ていった。
    「わたし、〈外れ〉ようかと思うの」
     おどろかなかった。おどろかなかった師匠である俺に、先生、と弟子が細い声をあげた。
    「残念だとか考えなおさないかとか言ってくれないの?」
    「言ってほしければいくらでも言う用意はある。けれど、わたしは別の言葉を言いたい」
    「じゃあ、言ってよ」
     俺は黙っていた。言っていいものかわからなかった。すると、弟子は堪えきれないような声をあげた。
    「先生、わたしっ」
    「何処にいても、わたしの弟子はきみだけだ。この先もずっと」
     先生ずるい、と弟子がむくれた。
    「ずるいと言われても、正直な気持ちを述べただけで」
    「先生ずるい! ていうか、わたしの他に弟子とってよ、そうしたら思い切れるし」
    「弟子はとらない。夢見式も執り行わない」
    「彼へのあてつけはもうやめて」
    「そう受け取られてもかまわない」
     俺の返答に、彼女は口を真一文字に結んだままだった。
    「きみが政治家をめざすのか教師になるのかはわからないが」
    「教師のほう。私学ならべつに〈外れ〉る必要もないし、他の国ならまた事情が違う。だから、悩んでるの……」
     悩みはそれだけでないのも、その言葉で察した。違う国籍をとる算段もしているのだ。うつむいた彼女を眺めながら、俺にはでも、かける言葉がない。
     この子の母親である従姉に救い出されたとき、彼女はひどく困惑したような顔つきで申し出た。娘にはまだ連絡を入れないでおきたい、と。それは当然のはなしでもあった。俺は、あの子はたぶん、もう気がついているでしょうけれど、と伝えた。じっさいそのとおりだった。先生はきっと、帰ってくるなって言うと思ったから、と一年後に告げられた。あたしはだいじょうぶ、とも口にした。先生と違ってしっかりしてるから、と笑いながらつけたした。その通りだとおもったし、そう信じた。視界の主に希った。誰も、この視界の何も、彼女を脅かすことのないように。
    「先生、セックスってそんなに重要なこと?」
     突然の質問に面食らったわけではない。
    「誰にとって何にとって、が抜けている」
     そう問い返すと、口の端をあげてこちらを見た。こういうときの顔はあのひとに、つまりその祖父の不敵さを彷彿した。
    「もちろん、先生にとって」
    「……わからない」
    「先生ってば!」
     弟子が腕を組んでふんぞりかえって怒ったが、俺はこたえを持たなかった。仕方なく、正直なところを漏らした。
    「たぶん、わたしはそれをする相手に困ったことがないからわからないんだ……」
    「先生、それ、他のひとの前でいうと刺されるよ?」
     苦笑でうなずいた。知っている。いや、つい先日はじめて教えられた。
     それから物思わしげにうつむいている弟子へとたずねた。
    「彼は、なんて言ってるのかな」
    「相談してない。まず先に、先生に言わないとっておもって」
     この子が付き合っているのは師匠の養子だ。紛争地帯からこの国へ来てその弟子となった青年だ。毎年夏に会っているのに、俺はまだ彼とろくに話しをしたことがない。言葉に不自由しているわけでなく、非常に寡黙な青年だった。その母親になった委員長が、いっとき酷く落ち込んでいた。じぶんには何も話してくれないと、と。中高といじめもあったらしい。だが昨年無事に大学を卒業した。彼女の先輩でもある。
     俺は、面と向かってはっきりと聞いた。
    「彼と、その、そういう交際をしてる?」
     彼女は髪を揺らして否定した。そしてすぐ、逆にそうじゃないからめんどうくさいの、結婚を考えないとならないから、とこたえた。
    「わたし、彼といっしょにこの国を出たいって気持ちもある。でも、まだ勉強したい。ようやく元の鞘におさまってくれた親は置いて行ってもいいのかもしれないけど、でも、決心がつかない。けどこの平和な国で安穏としてるともおもう。彼からしたら、そう感じるかもしれない。そういうふうには決して言わないだろうけど……」
     俯いて膝を抱えて丸くなった弟子の隣りに腰かけた。好きだからこそ聞けないことも言えないこともある。そう口にするかわりに。

     こないだの礼に豪勢な夕食を御馳走し、送りがてらせっかくなのでアーモンドの花も見にいった。互いに何も話さなかった。ただ花が綺麗だと言って朧月を見あげ、微笑みあって別れた。弟子とも離れることになるのかと、舞い散る花びらを踏みしめながら、帰り道はどうしようもなく足取りが重かった。

     その夜、横になって考えた。あの子がもしも〈外れ〉るのだとしたら、俺は夢使いとして何をなしたことになるのか。
     日々のあがないこそが本義だという気持ちが沸き起こるとともに、じぶんには、誰かと、何かと繋がることが出来る才能とでもいうべきものがないのかとため息をついた。息苦しかった。
     
     ひとりで生まれてきて、ひとりで死ぬのだ。きゅうに、そのことの当り前さが恐ろしくなった。何もかも消えてなくなる。ひととの繋がりどころかそのひと自身も。香音の揺曳さえも、この視界から失われるときがくる。そうならないために、われわれ夢使いは視界を廻らすためにあがないを執り行う。
    だが、その〈静寂〉のときはいつかやってくるのだ。
     俺はその夜、泣かなかった。闇に食い潰されそうなじぶんの輪郭をおぼえておこうと身体を抱いた。先ほど見た花の散る様がくりかえし、浅い呼吸のあいまに脳裏を流れていった。

     四月になっても状況はあまり変わらなかった。あいかわらず俺はひとりで、仕事がある日はどうにか夢使いらしく振る舞い、それ以外は泥人形のようにぐずぐずと泣き暮らした。十二年いっしょにいたのだ。たかだかひと月やふた月で痛みや悲しみが失せるはずはないと常識的に考えた。希死念慮というやつがときどき襲い来るのをやりすごすのに、迷惑をかけるな、という言葉はまじないのようによく効いた。何の関係もなくなるのだからと言いながら、死ねば何らかの「関係」が問われてしまう、それを教えていった彼を俺はきっと恨んでいた。死ねば、彼は俺を一生忘れられないだろう。そう考えることもあった。だが、俺よりも前に、そうして彼に消えない傷を残して死んだ相手がいるのだ。また俺はその人物の後追いしかできていないことになる。それに、彼が俺にしてくれたことをそんなふうに仇で返すことは断じてしたくないとも願っていた。けれどそのどちらも、どうしようもなく本心だった。我ながら馬鹿らしくて、情けなくて、おかしくて泣いた。

     教授が、あれから頻繁に連絡をくれるようになった。叔父との約束がある。俺を死なせたくない、死なせるわけにはいかないのだろう。あの家を出るようすすめられた。俺は首を横に振り続ける。あがないを依頼された。難しい伎だった。腕を試されているとわかった。二晩三晩とくりかえし、及第点以上をもらえたと安堵した。帰り際、しばらくここで暮らしませんかと問われた。白い花に囲われたこの瀟洒な洋館が持家だといった。首を横にふった。じゃあ今晩からずっと、あなたをあがない続けると言ったら?
     首を振ろうとした。けれど教授は俺の右頬に手をあててそれを許さなかった。そのときはじめて、このひとは左利きなのだと察した。じぶんの注意力が凄まじく鈍っていることに気がついた。おそらく、このふたつき粗相していなかったのではなく、みなそれを指摘しないでいてくれたのであろうと。
    「私は依頼主としたら悪くない相手かと思いますが」
    「そういうおはなしではなくて」
    「そういうはなしですよ。定住の夢使いの殆どは誰かの、どこかの家の専属でした。私はあのセンターの最高責任者です。当代一の魘使いを独占したいとおもうのは不思議なことではないでしょう」
     俺はそこでわらった。教授は瞳を眇めた。
    「私は何か、おかしなことを言いましたか」
    「いえ、わたしより優れた魘使いはいると思っただけです」
    「誓っていいますが、いま私の知る限り、この国においてあなた以上の魘の使い手はいない。まして、あなたは晏も先日その手におろした。それがどれほどのことか」
     俺は口を噤んだまま相手の顔をみた。いま、そう、今はそうかもしれない。
    「……あなたが気にされているのは、彼の夢見式を施した人物ですか」
     心臓が鳴った。はっきりと問われたことで逃げられないと悟った。
    「どうせ死人ですよ」
    「そうですね」
     俺は、そう言いながら教授の手を頬からどけようとしたけれど逆にその右手を握りこまれた。じぶんより背が低く華奢なひとだと思っていたのに力は信じられないくらいつよかった。
    「あなたはいま生きている。この先その人物を越える可能性だってだからちゃんとしっかり持っているのです。じぶんを信じてください」
     頭では、わかっている。じぶんは生きている。だから、死ぬまでには過去の魘使いの伎という伎をさらい、それを越えていきたいと願い、その努力も惜しまないできたはずだ。けれど、そうした決意を悉く、その人物に打ち砕かれつづけた。
    「あなたは、あなたを監禁して殺そうとした『依頼人』をこの右手で生かそうとしましたよね?」
     背筋を震わせた俺に、教授がゆっくりと、目を合わせようとしながら告げた。
    「あの青年はまだ病院にいます。ですが、個人病室を出たそうです。快方にむかっています」
     教授は俺の表情をたしかめるように顔をちかづけてきた。
    「ご承知のように、彼は私の講義を受けていました。私はあなたに何を、どんなふうに償ったらいいのかがわかりませんでした。あなたにお伺いするしかないと思い、それを申し出ましたが、あなたは彼をじぶんの『依頼人』だと繰り返すだけでした。私は長いこと夢使いの研究をしてきたというのに、あなたが何故そう言ったのか、どうしてあの青年の依頼を受けたのかわからなかった。いえ、わかろうにもあなたと接することもずっとなかったのですから仕方ありません。ですが、ずっとそのことを、それだけでなく、あなたのことを考えていた。じっさい、あなたにもそれがわからないのかもしれない。あなたとあの事件直後に病院で話したとき、右手を自由にされたから、と言いましたね。左手の爪は潰されていて使えるとは思わなかったとも」
     俺はただうなずいた。このひとへ、そう説明したことはおぼえている。だが、その意味は自分でもたしかによくわからない。考えたわけではない。
    ただ、それがおりてきたのだ。夢が。
    「私はその以前からあなたのことが気になっていました。あなたの夢使いとしての才質に多大な興味があった。でもあのとき、あなた自身に捕らわれた、と思いました。彼がいるのであなたを見ないようにしてきたのに、困ったことになったとたいそう弱りました」
     自嘲をまぎらわすかのように横をむいた。手は握られたままだった。そのまま言葉がつづいた。
    「私はさきほど卑怯な言い方をしましたね。ほんとうはあなたの恋人になりたいと本心を述べるべきでした。即座に断られるのが怖くてああいう言い方をしました。すみません。でも、あなたをあがなうことができる程度の資産はあります。不幸な死に方をした親の残したものなので手をつけるのが怖かった。私が自由気儘に研究職などできるのもそのおかげです。けれど先ほどの私のものいいはあなたに相応しくないものだった。大変申し訳なく思います」
     再び頭をさげられて、なにを言ったらいいのかがわからなかった。教授はゆるしてくださいと囁いて、この左手に唇をよせた。花びらのようにかるく。それから手をはなし、ちいさな声できいた。
    「彼に、あがないをしたことがないそうですね」
     その質問にはこたえたくないと示した。教授は余計なことを聞きましたとあやまって、よかったらまた来てくださいと言いながら扉をあけてくれた。送りますと申し出られたが断った。悲しげに寄せられた眉をみて、また来ます、こんども難しい依頼をお願いします、精進しますので、と告げた。教授は泣き笑いのような表情を浮かべてうなずいた。
     玄関を出ると白い沈丁花の香りに気がついた。亡くなった母親が白い花が好きで、と教授がいった。白木蓮がとうに散ったのはわかった。そのうち白薔薇が咲くだろう門をくぐり抜けてお辞儀をした。
     今はひとりで歩きたかった。できたら、あのコンビニで何気ない顔をして缶コーヒーでも買って、冷えた手をあたためたい。
     花の香は甘いのに指先が冷たくて、傷めた左手を庇うようにポケットにしまった。