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花うさぎのことを語る

  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「夢の花綵(はなづな)」夢うつつ夢うつつ 20-----
  •  依頼人はこどものころの夢を、と願った。それなのに、せっかく彼が来ているのだから、あがないはすぐ隣でなくてもできると知っているよと微笑んで俺を帰そうとした。俺は夕飯後しばらくして病室へ戻った。もちろん彼も笑顔で送り出してくれた。
     明け方、右手に香音をとらえた。それはしずかに、それでいて恐ろしいほどまっすぐにこの場を目指しておりてきた。息をひそめて爪弾く。それは若い果実を思わせる馨をまとい、思わぬほどに強く、ドキリとするほど張りつめた高い音を鳴らした。これは、晏だ。そう感じとった瞬間、右手にいくつもの手がこの刻(とき)を待ちわびたように触れていった。俺はじぶんがそれを鳴らしているのか、それとも操られるままに手を動かしているのかわからなくなった。けれど、それはもう、この華やぎに満ちた香音に全身をひたした今はどうでもいいことだった。そう感じたとたん、いくつもの手は気後れのようなやさしさで俺の左手に触れた。まるで、晏を鳴らせというように。
     俺は左手をそっと伸ばした。晏に左手で触れたものはいないはずだ。けれど無数の手はそれに触れろと命じていた。そしてまた晏も、逃げるようすはない。しかも髪に触れ、それを揺らす香景は晏のそれよりずっと重い。
     息を調えた。
     爪弾くには畏れ多く、魘として対するには軽すぎる。
     両手が自然に捧げもつかたちをとった。
     掌に、海が落ちてきたのかと思った。
     俺はそれに深々と沈んだ。大量の水にとらわれたのかとおもったが、香音そのもののなかに沈み込んだようだった。魘の重みに溺れるのともまた違う香景が皮膚のすみずみを荒々しく舐めていく。視界樹すらみえない。東が、わからない。つまり、じぶんが何処にいるのかわからなくなっていた。
     その事実に身震いした瞬間、沈められた俺を引き上げたのは先ほどの無数の導き手たちだった。それらは俺を引き戻し、香音を捏ねるようにして転がして攫っていった。
     香音はいったん高く持ち上げられ無数の泡粒となって街へと降り注いだ。あれほど静かにおりてきたものが、こんなにも賑やかで、みずみずしいことに鼓動が弾む。その泡が何かを包みこみ、それらを洗い流すように弾けては、ひとつひとつがもとの静けさを取り戻し、ゆっくりと、ゆっくりと〈誓〉へとおりていく。俺はそれを呆然としてただ眺めた。
     最後のひとしずくが丸い湾の彼方へとおりていくのと、まだ眠りについたままの依頼人の目尻を涙が一筋つたい落ちるのが同じだった。それを見て、俺はようやく瞼を閉じた。日はすでに昇りきって眩しいくらいだった。

     よほど今朝の仕事がこたえたのか、帰りの列車に乗りこんですぐに俺は眠ってしまったらしい。彼と暮しはじめて、移動中に眠るというささやかな贅沢をおぼえた。窓際に陣取ったその肩に頭をもたげ揺れに身を任せる。電車のなかで眠るのが心地よいと、二十代半ばまで知らなかった。
     下車駅より手前で目がさめた。俺が起きたので彼は本をしまった。
    「よく寝てた。疲れてたんだね」
     笑顔でそう指摘された俺はうつむいて、すまないと謝った。彼は微笑んだままだった。俺が無理やり遠くまで呼び出した。しかも明日も彼は仕事なのに、自分が眠ってしまったことが恥ずかしかった。そう感じていることも伝わっているとわかっていた。けれどその気まずさには、ひとりでいたときには知らなかった甘やかなくすぐったさもあった。
    「明日の朝、食べるもの何がある」
     まるまる二週間家をあけた俺がたずねると、冷凍庫は空にしてないから、とそっけないようなこたえが返った。それには首をかしげた。
     何か、妙な感じがしたのだ。
     彼が苦笑した。
     それから、彼はいちど窓のほうを見た。俺もつられてそこに何かあるかと眺めた。何もなく、互いの顔が暗い窓硝子に並んでうつっていた。彼は硝子越しに俺の顔をみて口にした。
    「四月から出向になりました。荷物のほとんどを先方に送ってあります」
     今はもう二月後半だ。唐突に感じた。そして、研究センターに出先機関があったのかどうかすら、俺にはわからなかった。
    「来月にはセンターと双方の行き来が多くなるので、そちらに家を借りる手配をしました。今まで本当にお世話になりました」
     彼はこちらに向き直って頭を下げた。目の前にある茶色い癖毛を眺めながら、俺は何を言われているのか本当に理解できなかった。いや、理解そのものを拒んでいた。 
     俺が黙ったままでいるので、彼は頭をあげてかすかに首を横にふって続けた。
    「あのひとと、同じ病気なんです」
     誰のことなのかは、わかった。と同時に、これが、どんなはなしなのかも理解し得たはずだ。
    「来週手術がある。付き添いにいきます。本来なら彼女が副館長に納まって運営をすべきところなのですが、そういうわけでおれがしばらく代わりをします。暫定的に一年出向という形になっていますが、それも術後の経過次第です」
     俺はそれでもまだ声が出なかった。
     列車はゆるやかにスピードを落とし、駅に到着するむねがアナウンスされていた。彼はおれの足をまたぎ、棚にあげていた俺の荷物をおろした。俺はといえば、じぶんの意志で腰をあげるのすらむずかしかった。
     電車がとまり、他の乗客に押されるようにして彼が外に出た。通路を塞いでいた俺の荷物も、俺が慌ててそれを掴むまえに彼が運んだ。俺は夢秤と階梯のはいった荷物をしょってのろのろとホームへとおりた。
     彼が、立っていた。片手に端末を手にして。
     何か言わなければならないのだとはわかっていたつもりだ。けれど何を言おうとするのかわからずに俺が口をひらきかけたところで、彼のほうが先に言った。
    「いま送ったデータは大切にしてください」
     そして、あの男の名前を告げた。じぶんの端末をひらいてそれを確かめる気にもなれなかった。何故その名前がいまここで出されるのか、その意味をそれと知るのは、何かを決定的にするものだった。
    「おれの端末とパソコンから、あなたの依頼人の履歴等はすべて、問題のない方法で消去しました」
     俺は、なにを言えばいいのだ。
     何故、という言葉はもう、とどかないだろう。理由はすでに告げられていた。簡潔に。明確に。
     それでも……
     風にマフラーが煽られた。俺は慌ててそれをつかむ。と同時に端末が震えた。メールではなく、依頼人からの電話だった。
     彼は俺に電話にでるよう促した。それには応じた。いや、そうするほかはないと感じた。出てすぐ、依頼人に今すぐ来られるか問われた。彼が俺の逡巡を見てとって、目顔で荷物をさした。そして、なんなら家まで運ぶけど、と口にした。
     たしかに大荷物を依頼人のお宅に運ぶのはあんばいが悪い。それだけの荷物の入るコインロッカーを探す時間と手間を考えたら任せたほうがいいのだが……俺は、なんとこたえたらいいかわからなかった。
     彼は俺のこたえを待たずに荷物を持った。俺は端末を片手に依頼人のはなしを聴きながらその背を見送った。