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歓びの野は死の色すのことを語る

外伝「黒髪」

 じゃきり、じょきり。
 音がするたびゾロリと長い房が落ち、襤褸布のうえに黒蛇がのたうつ。
 死の女神は、復讐の念に燃えるとその髪が蛇に変わるという。あれはこの様をさすのかと、おれは今さらに伝説の意を悟る。
 おれは、自分の髪が好きではない。
 否、正確にはあの日まで、好きではなかった。そして、『あの日』などというものを何年も覚えていて忘れられない己というものこそが、太陽の神に忌み嫌われた死の女神の執念深さに通じて腹立たしい。
 おれはため息をついて手を止めた。
 周囲にはべる人間がいない不便と自由をかみ締めて、もう一度、鏡をのぞく。
 そこに、むっつりと不満顔の女がいる。
 髪と同じ漆黒の瞳には、不穏な光が宿っている。どう見ても、愛らしい姫君という相貌ではない。
 今朝方こちらの古神殿にうつったばかりで、みなは部屋割りや荷物の振り分けに忙しい。そうでなければ、おれを独りにしなかっただろう。
 お疲れでしょうと暗に役立たずの烙印を捺されて自室に閉じ込められたおれは、これ幸いと髪を切ることにしたのだが、これが存外難しい。
 なるほど、職業というのは伊達ではない。あらためて感心したものの、今さら床屋を呼ぶわけにはいかず、事態は一向に収拾しない。
 癇癪をおこしそうになるのを堪え、おれは再び鋏をにぎる。ひんやりとして重く、かさのある濡れ髪を手にとって、ひと房ひと房、処理していく。
 あの男は昔、この髪をほめてくれた。
 綺麗な色の御髪だから、白い花がよく似合うと微笑んだ。
 それはおれの歓心を買うためのことばではなくて、花が美しいというのと、または鳥の声が美しいというのと同じような調子であった。
 おれは、そんなふうに、ただ自分の感じたことを感じたままに話す人間を誰一人として知らなかった。そしてまた、この世にはおれの嫌いな闇色を、心のそこから美しいと感じるひともいるのだと、そんなことも知らなかった。
 それ以来、ルネの登城する日はいつも髪に花を挿した。
 オルフェはおれをからかいながら、一方で気に入りの白薔薇をルネにもたせ、ぼくは横になって動けないから妹のエリスに届けてほしいと殊勝な顔で頼んだりしてくれた。
 編みこんだ髪に花をさす手が、いつも震えていたように思った。それとも、震えていたのはおれのほうだっただろうか……?
 だが、おれはもう、髪を編まない。
 花も挿さない。
 黒髪の散った襤褸布を拾い上げ、くるりとまとめて屑入れに投げこむ。軽くなった頭をひとふりして、おれは厨房にむかった。
 腹が減っては戦はできない。明日からは、武器のない戦場だ。
 これで未練は断った――おれはそう考えていた。

 ところが、恋というのがどんなに凄まじい勢いで追撃してくるものかということを、死の女神の執念深さよりも激しいその力を、そのときのおれはまるで知らないのだった。

 終