騎士
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それからアンリはふと視線をはずし青銅製の衝立へと顔をむけた。天才芸術家サルヴァトーレ作と云われる華麗極まる祭壇衝立は、通常とちがい無味乾燥な背のほうをこちら側に見せている。向こう側におさめられているのは『騎士』の肉体に他ならない。
もとは書庫であった場所――つまり当時、ゾイゼ大神官の命により新神殿に遺贈された葬儀録等が置かれていた図書室――の書棚などを取り払い、エリス姫はそこにルネ・ド・ヴジョー伯爵の肉体を安置した。
かの女公爵がエリゼ城に起居したことはご存知のとおりだ。彼女は国主であり、その城の持ち主本人なのであるから当たり前に思えるが、はたしてそれは当然としてよいことなのかどうか……。
オレは、エリス姫が古神殿で眠らなかったことを知っている。そしてまた、太陽神殿神官となったニコラ・バトーが内密に、だがたいそう熱の篭もった真摯な想いで、彼の主であったものの肉体を太陽神殿に帰すよう幾度も送ったその書状さえ目にしている。
ルネ・ド・ヴジョー伯爵が年を取らず、ただ眠りについているという事実を知るものは、当時ほんの一握りの人間だけであった。エリス姫が亡くなり彼女の姪がこの国を治めるようになってからは、それを知るのは「葬祭長」の地位を襲うものだけの秘密となった。
ところが、そのころから『騎士』がこの国の其処此処に出没しはじめるのだ。
あるときは渡河の途中、盗賊に襲われそうになった際に救ってくれた騎士として、または巡礼路で道に迷ったときの案内人として、そして狼に追われて逃げる背中でそれを退治してくれるものとして。
暗い森の真ん中で白銀の甲冑に純白のマントを羽織った騎士姿を見たものは仰天したに違いない。生きて村に帰った男はそのはなしをみなにした。ひとたびは、その噂が村中にあふれたであろう。だが、その不思議は酒場や炉辺で語られただけで、何事もなく日々は流れる。誰も、記録しようなどとは思わない。もとより、文字など知らないのだから。
しかしながら、稀に、「葬儀録」に生前のそのひとの行いとともにこうした不可思議な体験が書き込まれることがある。
この国の全ての人間の「葬儀録」を読む女、つまり歴代「葬祭長」は注意深く、その出現した場所と時を記し続けた。その記録もまた、この衝立の向こう側に収められている。
「アレクサンドル様」
物思いに沈んだオレの意識を揺さぶるほども改まった呼びかけに、弾かれたように頤をあげる。
「『騎士』が、現れました」
「アンリ? お前、見たのか?」
彼はこちらの質問を平然と無視して続けた。
「戦になりましたら、貴方様はここに」
「馬鹿を言うな。国主であるオレが戦場に赴かずどうしろと?」
「銃や大砲を用いずモーリア王国に勝てるわけがない」
「オレは《死の女神》が炎を嫌うといって、その教義を守るほど潔癖じゃない。もう何年もかけて銃も大砲も買い付けてあるのはお前も知っているだろうに」
「しかし数が足りません。その技術も拙劣だ」
なるほど。きちんと役目を果たしてきたわけだ。派兵目的のひとつはモーリア王国軍の偵察にある。言葉を飾る必要がないと開き直った男へと、オレも傲然と返す。
「どうせなら、そもそも兵士が足らないと言え。モーリア王のような国王付常備軍はこの国にはないからな」
鼻で笑ったオレをようやく伯爵は見下ろした。
「どうするおつもりで?」
「決まってる。『騎士』にご活躍願うのさ」
「アレクサンドル様?」
アンリの切れ長の双眸が大きく見開かれた。なにもそんなに驚くことでもあるまいに。
「お前、このオレを誰だと思ってる?」
「それは」
「案ずるな。必ず勝つ」
「ですが」
「オレを信じてないな?」
斜めに見あげてやると、神妙な顔つきで首肯した。変なところで素直だな。とはいえ不敬罪で訴えてやるわけにもいかんし困ったものだ。こいつがいないと仕事にならん。それでも主君を信じないとは罰金くらい支払わせてもいい気もするが、富裕で著名なヴジョー伯爵とはいえ戦の準備で苦しいに違いない。だからオレは戦争が嫌いだよ。モーリア王のやつが重税に次ぐ重税を課しているのを見ると正気を疑う。内紛を辛くも抑えきったからよいものの、いつかしっぺ返しを食らうだろう。その方策も練っているのだが、どうにも捗々しくない。
オレはかつて派手にあの国で動き回ったせいで、懇意の貴族は国王の不信をかっていた。となれば内側から揺さぶる手は使えない。うまくすれば婚姻ひとつで情勢は変わるものの、エリゼ公爵家はお世辞にも多産系ではない。だが、子はよく育つ。生まれた子のほぼ全員が成人するのだから、他国から羨まれるのも当然であろう。《死の女神》は己の子らに恩寵を齎す。否、恩寵でなく、呪いかもしれんがな。
こうして考えている間にも、春楡の葉のような両目が無遠慮にオレをのぞきこんでいる。そういえば、兄が死んだときもこいつはオレの顔をじっと見てなにも言わなかった。いや、正確にいえば、兄が持っていた毒を知っていて取り上げなかったと責めたときも、この男は黙って突っ立っていただけだ。彫像のように動かず、瞬きもしないでオレを見つめる男に何をいっても無駄だと学ばされた。
オレはこの男が膝下に跪くのを快しとし、その忠義の証にこの身を与え、オレを誅しようとした兄が死ぬのを見届けさせた。誅する。そうだ、兄の計画の上において、オレは国家に仇なす者であった。
兄が、家臣の讒言に惑わされたのだとこいつは言った。たしかにそれも理屈だろう。兄の周りには、帝国派の貴族たちが屯していた。そしてまた、オレたちの母はさきの皇帝陛下の姪であり、兄の妻はやはりその血筋であったのだ。
「お前、結婚する気はないか?」
「戦争の話しをしていたのでは?」
アンリが不審そうに眉を顰めた。察しの悪い奴だと罵りたいが、ここはぐっと堪えて猫撫で声でもだすように優しく話してやるのが肝要であろう。そうして口を開こうとしたところで、先手を打たれた。
「私は貴方様の為にいつなりと死ぬ覚悟はありますが、亡くなった公爵夫人を後添えに迎えろだなど命じられれば今すぐオマージュを取り下げます」
「お前、随分なことを言うじゃないか」
「貴方を殺して私も死ぬと言い出さないだけ理性があると褒めていただいてもよろしいかと」
ここまでしらっぱくられてオレが黙っていられると思うか?
「ヴジョー伯、お前に死ぬ覚悟があるのは騎士としての矜持でしかない。オレの為であろうとなかろうと、お前は己の尊厳の為に生きて死ぬさ。オレもそうだ。オレはオレの信義のために生きて死ぬだろう。だがな、お前がこの国の領土の三分の一を治める男でなければ、また神殿騎士団長でなければ、お前に捧げられたオマージュなぞ今すぐにでも突き返してやるさ。
オレはひとに命令されるのは嫌いだよ。まして脅迫されるなぞ真っ平だ。お前は、オレがお前をけっして捨てられないと知って主君であるオレを脅した」
アンリ・ド・ヴジョー伯爵の瞳はオレの顔から動かなかった。その、少しも身に堪えていない有様に、こちらが慌てた。そうなってはじめて、翡翠色の両目に何らかの後悔がうかぶ。
「……私を恨んでおいでで?」
「腹を立てただけだ」
売り言葉に買い言葉とはオレも少々大人気なかったと反省し、横を向いて去ねと振った手を掴まれた。
「兄君の件で」
「アンリ?」
「それとも、貴方様を諦めるようアウレリア姫にお願いした事をご存知で?」