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歓びの野は死の色すのことを語る

騎士

「目を覚まされましたか」
 ヴジョー伯爵の長髪が額をかすめ、汗のにおいが鼻をついた。臭いのはいやだと断りをいれたのに、こいつが風呂も入らず闇雲に押し倒してきたのだと思い出す。 
 どうやら絶頂で気を失ったらしく、のぞきこむ顔は笑み崩れている。
 公国一の美男がなんとしたことだ。宮廷の女官どもにこのやにさがった助平面を見せてやりたい。しかも、むっとするほど雄臭い。洗い立ての亜麻布に、埃にまみれた馬の獣臭さと汗を吸い込んだ革の饐えた匂いが充満している。オレはなんでこんな奴に圧し掛かられてよがっていたのか自分を疑う。こたえは明瞭だ。オレも溜まっていただけで、それ以上のことはない。
 大きく息をついて睫を伏せると、上に乗っかった男は汗で濡れた首筋にまとわりつくオレの金髪を丹念に指で撫ではらい、また耳にかけやり、そうしてあらわれた耳の尖りにかるく歯をたてた。オレが肩を揺らすと熱っぽい声で名前を囁き舌で弄りはじめたので、あわてて目を開けて言い放つ。 
「退け、重い。仕事する」
「貴方様に会いたくて、一昼夜休まず馬を走らせてきた私につれないことを仰らないでください」
「嘘つけ」
「嘘をついてどうしますか。旅籠の馬という馬を乗り換えてきましたよ。今ごろ従者が支払いと言い訳におわれていることでしょう」
 真顔で返されて鼻白む。こやつ、神殿騎士団長のくせに部下たちをおいて単騎で街道を突っ切ってきたのか。身分と立場を考えて行動しろと言いたくなるのをぐっと堪えた。同じことを返されては言い訳に困るのだ。それに、滅多に伝令など走らせないこの国で、神殿騎士団長にして栄えあるヴジョー伯爵閣下御自らその機能が健在であるか確かめたとあらば、その効果は覿面だ。今後の抜かりはないことだろう。
 さりながら、それは重畳と褒めてやるには無茶すぎる。本音は剣戟などあるわけもない難民護送に飽いてお役御免ととんずらしただけに決まってる。しかもそんな長時間馬上にいて、なおかつオレに乗りかかったとは恐れ入る。化け物だ。オレなら多分、足腰が立たずぶっ倒れているに違いない。
「……オレは、お前の馬じゃないぞ」
 乗り潰されてはかなわんと呆れ声で抵抗すれば、思わぬ歓喜の声があがる。
「貴方様は伝説に謳われる一角獣のようですよ。おいそれと乗りこなせません」
「処女には手懐けられる好色な生き物だそうだがな」
 《処女》ということばに眉間が曇り、こいつがそれで何を思い出したか察した。この男は、オレの恋焦がれる女性を知っている。オレにはどうやっても手の届かない、否、結ばれそうになった縁を彼女のほうから断ち切った、賢明な皇女アウレリア姫のことを。
 気詰まりな視線をふりはらうように肩をすくめ、図体のでかい男のしたから這い出て床に足をついた。伯爵の手は追いすがってこなかった。羊毛の漆黒のマントが素足に触れ、そのゴワついた感触に身震いした。血の、乾いた跡だと知れたのだ。
「殺したのか?」
 戦地に送り出しておいて愚かな問いを立てたようだが、そうではない。定期報告では派手な交戦があったとの報告は届いていなかった。
 裸の男は傍らの椅子においたオレの繻子のマントをとりあげて肩へとかけて寄こした。
「春とはいえまだ寒い。お召しにならないと」
 たしかに、肌が粟立っていた。だがそれは汗をかいた身体が冷気にさらされたためでなく、穢れに触れ、さらに多くの血の流される予感に怯えたからに他ならない。
 この数年の間にモーリア王国が隣接する公国みっつと交戦し、そのうち一国を奪い、ふたつの国の領土の半分と主要都市をみっつばかり掠め取り、また去年にはレント共和国から独立した自由商業都市を攻めはじめ、今まさに陥落させつつあった。つまり、この国の境が侵されるのは時間の問題というはなしだ。
 神殿騎士団長麾下の精鋭部隊を派遣したのは、あくまでもその都市の女神の神殿とその信徒を守護する求めに応じたからであって、国家間の問題ではない。超国家集団であることを建前にした戦略は、しかしながら昨今、通用しない。それも当然だ。そもそもモーリア王の狙いはこの国にあるのだからな。
「アンリ」
 苛立った呼び声に、背中に立った男は髪を揺らして頭をふり、ため息をつくそぶりで応答した。 
「これは野盗の血で、モーリア国兵士のそれではありません。まあ、どちらかの国の逃亡兵であるのは間違いないでしょうが。我々の役目は女神の信徒の守護であって、それ以上のものではないとは承知していますよ。本音をいえば、戦争をするほうが私には気楽ですけれどね」
 たしかに、言上げがあって、それなりに建前のある戦のほうが根っからの騎士である男には気楽だろう。戦争難民を保護したつもりが夜には盗賊になり、懐が狙われるどころか命まで奪われかねない状況では、戦場のほうがましと考えるのは理解できなくもない。今回のように他国の指揮下で防戦いっぽうの派遣は、この男には向かないであろうともわかっている。指揮権を握れれば落とせる城もあり、また救えた命もあると思えばこそ憤懣もたまる。
 寝台でのオレへの無体は不満な任務の意趣返しに相違ない。そう言えば恋情の故だと返されるので黙っておく。信じていないわけではないが血の臭いのする男に昂ぶりを咥えさせられて、善いも悪いもあるまいよ。いや、悪くはなかったがな。故意に抵抗して煽りもしたし、己の飢えを満たすよう誘いもした。オレは充分に愉しんだ。
 だが、それとこれは別だ。
 戦場に一定の理性があると夢見るのは武人の驕りでしかない。近年、モーリア国王が国力の差を背景に引き際を弁えて戦争をしているが、それゆえに保たれる戦争の「形」など幻想でしかない。むろん、殺し合いの場所に人間の理性や叡智などあるわけがないと思うのは、オレが《死の女神》の葬祭長であるからかもしれんがな。彼ら騎士階級には違う哲学があるのだろう。オレは騎士であっても生まれも育ちも宗教者なので知らん。心性が違うと斬って捨てておくわけにもいかないが、いまは言葉より行動が優先されるときだ。
 そうしたこちらの心中を察したものか、思わぬ弱気を漏らしたことを悔いてなのか、アンリは長い白金の髪をかきあげてまた小さく息をはいた。それからこちらへと向き直り、神殿騎士団長としての顔つきで続けた。
「後ほど書記官から正式な報告書は上げますが、はじめに話しましたとおり、亡命を希望する信徒はレント共和国経由で護送しています。あの都市国家は数ヶ月とたたずモーリア王国に包摂されるでしょう。近いうちに戦争になりますよ」
「春が来るとでも言うように、軽々と口にする」
「重々しく述べても事実は変わりませんよ。それは、貴方様も理解しておいでです」
 苦笑で聞くしかないのは、こいつに抱えあげられる前にオレがしたことは金の算段と各神殿への備蓄糧食確保その他の通達であったからだ。神殿の預かる嫁資保険はもとより今回は戦災保険で戦費を賄わなければなるまい。要するに、こんど溜息をつくのはこちらの番になったわけだ。そうして肩を落とした傍らで、下穿きを持った手がもう一度それを身に着けようとしたのでオレは思わず声をあげた。
「アンリ、風呂に入っていけ。着替えは用意してある」
「お邪魔ではなかったので?」 
 オレがわざわざ新しく服を仕立てさせたことを知って片頬で笑った男には、そっぽをむいて返す。
「居残れとは言ってない」
「出て行けとも仰らない」
「……この古神殿からはな」
 両腕を組んで仰ぎ見ると、オレの愛人は嬉しげな表情ひとつせず、礼だとでも言うようにオレの頬を手の甲でそろりと撫でて唇をかるく吸った。