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歓びの野は死の色すのことを語る

騎士

 アレクサンドルの呼びかけにこたえて振り返り見たのは、声をかけた当人でも副官アンリエットでもなく、橘卿のなにか言いたげな黒い両目だった。彼女――僕はすでにそれを知っている――はオルフェより優れた能力者であり、その来訪はアレクサンドル一世によって預言されていた。
 そのことをオルフェは知らない。否、彼だけが、知らない。と言っていいほど《夜》の関係者のあいだでは著名な預言であった。
 そしてまた、僕の双子の弟のオルフェは、僕の本当の「弟」ではない。
 彼は、この《夜》のために特別に創られた存在で、女神の神殿が秘儀のすべてを注ぎこんだ霊媒師だ。
 むろん、彼はそれも知らない。ただこの秘密はさいぜんの預言とちがい、彼だけが除け者なわけではない。とはいえそれを知るものは生きている人間では片手で足りる。
 僕は、僕とよく似た顔ながらまるで趣のちがう相手へと微笑んでみせ、つづいて遥か彼方の東の国からやってきた、僕と同じ異装のまろうどへと弟のそばにいてくれと念を送った。はたしてそれは伝わったらしく、かすかな同意のしるしに彼女は頷いた。
 橘卿を名乗るものが何をどこまで感知しているのか心許ないのだが、この覚束なさ、頼りなさ、不安と呼ぶべきものの正体が《夜》であるからして致し方ない。「初めての相手と枕を交わす不安に裏打ちされた恍惚」とかの偉大なる葬祭長アレクサンドル一世が呼び習わした手探りの状況こそが、《夜》の真価なのだ。
 鳥首国天帝陛下にその話をしたところ、かのひとは何も言わずにほほえんだ。あの、古拙で曖昧な笑みは僕をずいぶんと翻弄する。
 はじめに断っておくけれど、エリゼ公国元首たる僕は、鳥首国天帝と懇意の仲だ。帝都学士院から取り寄せたカレルジ家コレクションには、アレクサンドル一世の時代に鳥首国から帝国皇帝へと密かに献上された絵巻物(エマキモノ)や鏡も含まれていた。門外不出の代物をあの宝物庫から運ばせえたのは、僕の手柄というよりはエリゼ派長老の念力ともいうべき執念深さによるのだが、アンリエットには秘密にした。どうせ事情通の彼女のことだから、とうに耳に入っているかもしれないが、すこしばかり見栄も張りたいではないか。
 それはそうと、すでに鳥首国国家転覆の筋書きは、かのひとと綿密に練ってあった。この国からは学者や商人たちだけではなく、女神の神殿の神官や修道女がおとない、数百年前から細々と根付いていたエリゼ派僧侶たちの援護もあった。大君の乞いに応じ大陸式軍備に手を貸すモーリア王国の伯爵や橘卿、もとい「空木」殿下の語学教師となったその通事、彼らの動きを監視するために放った密偵もいる。いわば草の根的な宗教運動の陰にかくれた謀であったのだ。
 はかりごと。
 運動、などと呼ぶ公明正大さはそこにない。敢えて言う。いないもの、見えないものとして無視され弾圧されてきた側には、まっとうな規則にのっとっての「活動」などありはしない。
 モーリア王国の革命で、われわれエリゼ公国はその遣り方を学んでいた。むろん、僕は自分たちの暗躍によって鳥首国の政権交代が成ったなどとえらそうに言うつもりはない。かの国には文字通り、国家のために命を懸けるたくさんの志士がいることだろう。それに、外部干渉は大陸列強の植民地政策同等に悪しきもので、それでは本末転倒だ。とはいえ鳥首国のひとびとが純血主義を貫こうとするのであらば、僕はそれに猛然と異を唱えるつもりでいる。国を閉じていた期間など、彼らの永い歴史のほんのわずかな時間ではないかと。
 そして、外圧によってしか国が変わらないと艶やかに嘲笑する、かの麗しき天空人の憂いと嘆きは、実のところ他人事ではない。まあ、それは僕だけの問題ではない。国家元首などやるものじゃない。まともにやれば、まず間違いなく早死だ。賢聖政治など糞食らえ。君主に徳を説く者は地獄へ落ちろ。僕は楽しみたい。重荷は御免だ。一刻も早く、元首をやめたい。だからこそ、こうして精一杯はたらいている。
 そんなことを考えながら角を曲がって、全身が総毛だった。
 そこに、あるべき明かりがなかった。
 僕の、手の先にあるだけの炎。
 それによって、相手はこちらをたしかに見分けた。先頭の、みごとな白金の髪をした丈高い黒騎士はいかにも愉しげに口許をゆるめたように見えた。けれどその笑みさえも、次の瞬間には闇に溶けた。残るのは、白衣の神官と洒落た身ごなしの口ひげを蓄えた男だけ。
 そして、魂消るような悲鳴が轟いた。ついで、彼らは先を争うように走ってきた。大の男がみっともないと感じているようすは微塵もなかった。僕でさえ、引き攣った頬をもとに戻すのに苦労した。これはシテヤラレタ。すでにして、《夜》の始まりが兆している。
「こ、公爵閣下っ、い、い、今の、いまのっ……」
 炎天下の犬のように息を切らして先にたどり着いたのは、太陽神殿エリゼ派の神官シャルルのほうだった。異国の客人を置きざりにする勢いで走ってくるとはいい度胸だ。やはり人間、こうでなくては面白くない。いつもはこちらを醒めた目で見つめるくせに、こういうときだけ頼りにするかと複雑な心境になるも、彼はなかなか可愛らしい顔をしていて、役得だとも思う。そして、途中ではしるのをやめた髭男は度を失ったことを恥じるそぶりもなく、滑るような足取りでこちらにやってきて、震える神官の背を、目をしばたいて見つめていた。
「神官シャルル、怖がることはありません。ただの『死者』です。害はない」
 せいぜい立派な公爵らしく声をだし、若い神官の骨のつきでた肩に手をおいた。彼は困惑した表情でこちらを見つめ、手が、と震えの残る声でつぶやいた。その話ではここまできた経緯はこうだった。案内人を名乗る黒衣の騎士はふたりに目隠しをしろと強制したが、異国人トマス・クレメンズが断った。すると騎士はシャルルの手を引いてそのまま歩きはじめ、あわててクレメンズ青年が後を追い、以後は真っ暗闇のなかを男三人が手をつないでぞろぞろと歩いてきたのだという。
 その馬鹿話を途中で遮ることなく聞き終え、頭を抱えそうになっていた。神官シャルルはあの老獪なエリゼ派長老の秘蔵っ子で、発言は控えめながら条約推進委員の中でもその存在感は群を抜き異彩を放っていたものだが、これでは頭が弱すぎるではないか。
「あなた方、それをおかしいと思わなかったのですか? こんな暗闇を歩くなんて狂気の沙汰です」
「もちろん思いましたが、その、有無を言わせぬ迫力がありまして……まさか、その」
 彼は血の気のない顔で自身の右手を見つめ、ぶるっと全身を震わせた。それは、今のいままで「死者」と手をつないでいた己を忌まわしげに凝視する身振りというより、死者と生者の曖昧さに改めてなにごとかを感じるものの姿だった。
 《夜》の前に死者たちがこの国へ戻ってくるのは例のないことではない。民間伝承として山ほど残されているし、すこし年老いた者なら前回の《夜》の想い出を浪々と語ってくれるだろう。などと考えながら、僕も「死者」を間近にしたのは初めてだった。あの笑みは、こちらの驚嘆を完璧に見透かし、あまつさえその素朴を嘲笑っていた。これだから、ヴジョー伯爵家の連中は苦手だ。
「公爵閣下、お初にお目にかかります」
 神殿語の耳慣れなさに、名乗りをあげたその顔を無遠慮にのぞきこんでいた。挨拶くらいこの国のことばでしたらどうだという不満を、彼はたしかに汲み取った。その男が皮肉っぽい笑みを浮かべ、大胆にも右手をさしだしながらモーリア語で口にしたトマ・クレマンという音に不吉な影を感じたが、面に出すほど間抜けではない。なんとなれば、そう名乗らないがために彼は神殿語で話すのだとも思えた。僕には握手の習慣はないが、相手の流儀に逆らうこともない。進歩的な領主らしく笑顔で応じると、その雄弁な眉毛が意外だとばかりにつりあがった。その手は物を書く人間につきもののペン胼胝があり、嗜みのある男らしくその身体からはかすかに葉巻のよい匂いが漂っていた。古神殿にはしかるべき喫煙所がないので、この男がそれを我慢したかと思うと少しあわれになって、同時に胸がすいた。
「われわれを案内してくれた方のお名前は?」
 その問いにはこたえる用意があった。僕は夜目の利くほうではないが、神殿騎士の黒衣に腰までの長い白金の髪ときては見間違いようがない。
「アンリ・ド・ヴジョー伯爵。今から約百五十年前、アレクサンドル一世の側近だった方ですね。そっくりな顔をした人間がやってきますが、驚きませんように」
 話しは筒抜けだったようで、呼びかけることもなく、アンリエットを先頭に三人が来ていた。彼女は平素通りとりすました顔つきを装っていたけれど、明らかに笑いを堪えているのだとわかった。いっぽう、アレクサンドルはいかにも神経質そうに眉を顰めて彼らふたりを遠巻きにし、知らない人間に緊張しているのか橘卿の頬にはこわばりがあった。身分を明かす懼れのある人物に配慮して、この場を仕切るのは僕の役目になったようだ。
「さて、役者が揃いましたので目的地に急ぎます」
「お待ちください」
 声をあげたのは、他ならぬ橘卿自身であった。その場にいたみなは、自分たちより頭ひとつふたつも低い小柄な大使を全員で見つめ、次のことばを待った。