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歓びの野は死の色すのことを語る

騎士

 兄とアンリエットは並んで先を進んでいた。カンテラを持っているのは当然のこと男装のアンリエットのほうだ。そして僕は、どうにかして彼女とふたりだけで《夜》を回避すべく話し合いたかったがこうなってしまってはどうにもならない。タチバナ卿は先ほどまでは僕の焦りを察してくれていたようだったが、いざ地下道におりると両目を輝かせて曲がり角のしるしを見つけては、これがあの道順を示す記号ですかなどと尋ねてこられた。それに上の空でこたえるわけにもいかず、知っているかぎりのことを話さなければならなくなった。そうしてみると、この少年は十三歳という幼さにかかわらず怜悧であるいっぽう、やはりまだまだ子供らしいところもあると、失礼ながら、可愛らしいと感じた。
 それにしても、貴い身分の方を供もなくこんな地下道を歩かせる無謀に加担してしまった僕は、ずいぶんといいかげんにすぎる。もっとも、こんな無茶をしでかしているのは、兄が専心していたこの《地下機構》がどんなものか知りたくてたまらなかったせいだ。僕にはそれが利用可能だとは知らされていなかったのだから。
 道幅が狭くなるにつれて、タチバナ卿の口数が減ったのは気のせいではない。『歓びの野は死の色す』で描写された地下道の多くは幹線道路のみで、こうした脇道ではないことを、そしてまたそうした脇道が通常は使われていないことを、この方はよくご存知のはずだった。むろん僕でさえ利用したことはない。だからこそ慣れたようすで先をいくふたりの不気味な沈黙に閉口し、こらえきれず口を開こうとしたところ、お願いがあるのですが、とか細い声でタチバナ卿が囁いた。
「もしも、オルフェ殿下がアレクサンドラ姫と将来を誓い合った場所を通りましたら、教えていただけますでしょうか?」
 それは……。
 自分の名前もオルフェであるために妙にどぎまぎしてしまったが、その動揺を見透かしたように兄が足をとめて振り返り、アンリエットの腕をとった。アンリエットはカンテラをもった手を掲げてこちらの顔を射抜くように見た。それからふたりは同時に顔を見合わせ、きちんと身体ごとこちらを向いて沈黙した。
 そして聡いタチバナ卿はというと、自身の質問が僕たちに何らかの変化をもたらしてことに気がついたのにそれを慌てて問いただすことはせず、ほとんど先ほどの僕ほども無遠慮な、酷くまっすぐな視線をこちらに投げかけた。
 その瞳から逃れるすべを知らず、息苦しさを払拭するために咳払いをしてみせて、失礼と言いおいてから質問した。
「ひとつお聞かせいただきたいのですが、卿がお読みになった『歓びの野は死の色す』はどこの出版社のどんなものでしょうか?」
「モーリア王国の新聞社から出ているもので、中表紙に『白のエリス姫』の版画による複写がついておりました」
「ああ、それはもっとも広く読まれている普及版です。ということは、なるほど。そうですか。それは、ええ」
 僕はしだいになんと言っていいかわからなくなっていたし、タチバナ卿の細い眉はこころなしか真ん中に寄っていて、心中の不審をあらわにしているようだった。
 アレクサンドラ姫は、あの物語のなかでももっとも人気のある登場人物のひとりだ。それは間違いない。なんといっても、作者の理想の方がモデルなのだから贔屓にされているのは当然だ。われらがご先祖様は恥知らずにも、己の恋心を隠さなかった。それは多分にその方が「現実のひと」であると当時の作者が知らなかったからでもあるけれど。その複雑な、浪漫的な、並みの小説よりも数奇な恋物語については今、説明しなくてもいいのかもしれない。
「橘卿、私が習った歴史では、アレクサンドラ姫はこの国の大地を踏んだことはないそうです」
 そう口にしたのは兄だった。タチバナ卿はそちらへと向き直り、神妙な顔つきで続きを待った。けれど兄はかるく頤をしゃくるように横柄な態度で僕を促した。説明せよとの命令に、仕方なく応じた。
「兄の言うとおり、多くの研究者が皇族である姫君が他国へ旅をしたことや女戦士として育てられたという説を否定しています。そして、この国の記録にもアレクサンドラ姫の来訪の証となるようなものは残されておりません」
「そんな……」
「たしかに、オルフェ公子を婿に迎えたアレクサンドラ姫が当時としては型破りの女性であったことは事実です。後には歴史上初の女帝になられる方で、自身甲冑をまとって戦場を駆け抜けたという、これまた作り話だという噂のある逸話もあります。ですけれど、エリゼ公国に来られたという証拠はないのです」
「《夜》には? では、この《夜》で、アレクサンドラ姫が語られることはないのですか?」
「今のところ、記録にはありません。つまり、あの物語のアレクサンドラ姫という存在は、現実の女帝アレクサンドラではないのです」
「ああ……」
 小さな悲鳴のような吐息を耳にして、その落胆に重苦しい気持ちになった。そんな僕へとアンリエットが冷たい視線を投げかけ、カンテラを兄に渡してつかつかとタチバナ卿の横へとすすみでた。
「卿、嘆かれることはないのです。こたびの《夜》にはアレクサンドラ姫も【召喚】されるに違いありません」
「アンリエット!」
「恐れながら、歴史的事実とはいったい何でしょうか? 記録がないからといって、それが真実ではないと誰が決められますか。アレクサンドル一世猊下ほどの方が、そのことに無意識であったなどといえましょうか? 記録から抹消されたことゆえに事実であるということも、歴史には数え切れずありましょう。往々にして施政者はおのれに都合の悪いものを認めません。それこそ、声をあげられないものたちの、その存在さえ否定される恐るべき見方ではありませんか?」
 僕の狼狽に気がついたのか、それとも話の内容に気が向いたのか、兄がアンリエットに問いただした。
「アレクサンドラ姫の来訪は研究会で審議されたのか?」
「確たる結論は出ていませんが、今までの歴史家の見方には懐疑的です。とはいえやはり、文字情報以外に信をおけるものはありませんのでね。疑問を投げかけたという程度ですが、定説を無闇に信じるものではないとして、ひきつづき研究課題に挙げられています」
「なるほどね。では、この《夜》で彼女の【召喚】が成れば、事態は反転するわけだ」
「そういうことです」
 妙な雰囲気で、公爵とその補佐は互いに頷きあった。いっとき明らかになった信頼感の欠如による不和は、どうやら僕、または《夜》については関係ないらしい。そしてまた、タチバナ卿はなにがしかの期待をこめて、こちらの顔を注視していた。その奇妙なほどの情熱は、さいぜんの落ち着いた佇まいとは別個のものに見えた。この瞳をみて、彼の健気な願いを叶えたいと思わないひとはいないだろう。ところが、今このときこそが、《夜》を永遠に延期したいと述べる最高の瞬間ではないかと閃いたのだった。
「タチバナ卿、実は」
 僕のことばはそこで途切れた。
 遠くに、数人の足音を聴き取ったのだ。どうやらそれは兄も同じようで、アンリエットの手から素早くカンテラを取りあげて、ここにとどまれと合図して歩き出した。
「アレクサンドル!」
「心配するな。すぐ戻る。待たせている客人だと思うが、誰が案内したのか確認するだけだ」
 そういって振り返って微笑んでみせたが、それならば様子を見に行ったりはしないはずだ。アンリエットもそれに気がついたにも関わらず、落ち着いた顔でその場を動かなかった。そのまま遠ざかる背中を見送り、小声でアンリエットに尋ねた。
「客人って誰だい?」
「おそらくは、太陽神殿エリゼ派の神官シャルルさんと新大陸の新聞記者ですわ」
 次の角でアレクサンドルの姿が見えなくなると、カンテラがひとつしかないそこはいちだんと闇が深くなった。こころ細いのか、タチバナ卿がこちらに身を寄せたように感じた。いや、それはこの僕の錯覚か。なにか安心させるようなことを口にすべきか迷っていると卿がはっきりとした声音で質問した。
「エリス姫の呪いを信じておいでですか?」