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歓びの野は死の色すのことを語る

騎士

 トマスはぎょっとして目を見開いた。かろうじてその場に留まったが、緊張のためか、わずかに肩はあがっていた。そうした一連の自分の反応が目の前の白装束をきた聖職者への嫌悪感に基づくものと悟り、あからさまに赤面した。シャルルは先ほどから何も変わらないというのに、ただその言葉を聞いただけで態度を変えた自分を彼は恥じた。対して、神官シャルルは穏やかな声でつづけた。
「クレメンズさん、何かを明かすというのはこういうものです。知ればどうにかなるということではありません。むろん、互いの理解のためには壁を乗り越えて打ち明けていかなければならないのかもしれません。けれどそれは容易なことではないのです。黙っていれば、その身が守られるということもある。関係が壊れないということも。個々人の問題だけでなく、さきほどあなたがおっしゃったようなすべてと呼んでも差し支えないような広い範囲にまたがる差別構造、または支配構造があるのです。
 これを、エリゼ公国は問う覚悟でいるようです。
 そして、ぼくはそのことに反対したい。いえ、今をもって反対しているのです。
 この世でもっとも強き者である『騎士』に依存し守られたうえで、他者へ支配構造の権力図を問うのはたしかに最大限の矛盾でしょう。それは、よい家父長制と悪い家父長制を問うことで、その線引きは曖昧です。それでもぼくは、この国の未来を危険にさらすような真似は断固として阻止せねばならないと考えるのです。
 ところが、いっぽうでは、そんな特権を持った国が存在するのを許せないという想いもあります。他国からすれば、そう感じるものでしょう。あなたはその特権の基礎となるものを暴きたいと願い、この国に来たはずです。この国の人間であるぼくのなかでさえも、どの道を選べばいいのか結論はつかない。矛盾ばかりです。
 それでも、《夜》は来ます。かの書物でイズレニセヨ《夜》ハ来ルと繰り返されたとおり、それはやってくるのです。そして、万が一にでも『騎士』がいなくなれば、オルフェ七世殿下の【召喚】能力以上の力はこの国に存在しなくなります。かのひとにどのくらいの能力があるのか、ひとりふたりの死者を呼び出せるだけのことなら、そこいらの怪しげな交霊術士でもできることです。それがまやかしであったとしても、その両者には区別はない。ご承知でしょうが、この国には徴兵制はありません。騎士はいます。大勢の黒衣の騎士は。しかしながら彼らは銃士でさえなくて、昔ながらの装備しか携えていない本物の騎士なのです。
 クレメンズさん、大砲で月に行くような小説が書かれる時代に、またモーリア王国の政情が未だ大いに不安定であるというのに、この国は、青い雛罌粟に守られた魔法の壁を取り払おうというのです。もっと議論があっていいはずなのに、ひとびとは『騎士』とエリス姫の恋物語にうつつを抜かしてオルフェ七世殿下の声に従ってしまった。ぼくは、アレクサンドル公爵が強権を発動するものと思っていました。三年前に単身モーリア王国にのりこんで、われらエリゼ派や《至高神》教団と連携をとり、ブルジョワ層、または亡命貴族たちをも巻き込んで戦争を回避したように、また今回もなんらかの奇蹟を起こしてくれるものと期待していたのです。
 でも、もう日にちは迫っています。
 このままでは、《夜》に皇帝アウレリウスが顕現し、『騎士』を彼の刻(とき)に還すでしょう。それにより、この国の魔法は解けるに違いありません。ぼくはそれを阻止したい。せめて、国防の何たるかくらい、ひとびとに今一度なりとも問うべきでしょう。そうは思いませんか?」
 神官シャルルの必死の問いかけに、トマス・クレメンズはこたえられなかった。そのとき彼の頭のなかにあったのは、エリゼ公国の未来ではなく、瞳にうつる人物の性志向についてだったのだ。所詮彼はこの国の住人ではないと言ってしまえばそれまでだが、いくつもの国を訪れてきたトマスには、この国の異常な状況のほうが奇異であったし、今さらそんなことを上擦った声で問われてもこたえなど決まっていた。彼は自主独立の新大陸の人間で、また旧き世界の約束に縛られていた。つまり、自分の身を守るのは自分でしかないという決まりだ。彼の家では十六の娘でも銃を撃てた。彼が住んでいた土地はそれこそエリス姫のいた時代と同じほど、無法者やならず者がいる世界であったのだ。国家権力がいまだ弱く、中央集権国家など夢のまた夢というほどの世界にあっては、自分の土地は自分で守り自分の家族は自分で守る。それが、掟だった。
 そして、そのときトマスの灰色の脳を占めていたのは、この神官が妙によそよそしく見えたのは先ほどの告白のせいなのかどうか確かめたいという奇妙な焦りで、それと同時に、そうした欲求が何か非常に忌々しい下劣な勘繰りであるような後ろめたさに思われ、また実際その件を問い質してのちにどう会話を続けていいかわからない臆病さでもあった。
 いっぽうのシャルルは、トマスが青い瞳を曇らせているのをみて、他国の人間に不安を漏らし、自分の意見に賛同して欲しいと多大な期待をかけたこと、また太陽神殿が彼を利用としたことで疎ましがられているのではないかと不安になっていた。さらには、トマスに、自分の性の在り方が母親に捨てられた子供であるからだというような押し付けをされた場合、彼に幻滅するであろう自分を呪っていた。
 かほどに人間とは同じ場所にいても違うことを考えているものなのだ。
 まあ、そんなふうにしてオレがここで彼らの間に立って、親切ごかして互いの胸のうちを説明してやることもない。そいつは他の生きてるやつにまかせるか、放っておくのが礼儀というものだろう。オレは口は悪いが礼節は重んじるほうなのだ。これでもね。
 というわけで、オレは此処にも【召喚】されている。
 さて。
 オレ様が別口で【召喚】されている場所について語るのは御免蒙りたい。いやなに、本音では面倒くさいというか、面映いのだ。オレにも廉恥心というものはある。傲岸不遜奔放不羈と謳われた天才少年も年をとれば己を知る。尻の辺りがむず痒くなる、見当違いの阿諛追従には耐えられんのさ。
 否、追従ではなく、オレへの非難かもしれんがな。
 まあ、それはいい。
 オレ様はこの土の下に眠っているんだから。トマス・クレメンズのような輩の言うとおり、掘り返して調べてくれたって構わない。オレ自身はそう言うが、他のエリゼ家の人間についてはわからない。こんなところで告白するのも何だが、オレは男だから素っ裸にされようが気にしない。骨をバラバラにされようが、砕かれようが、気にせんよ。どうせ死んでるんだ。いつかは、オレがどんな病気を患っていたかだの、性生活はどうだったのと、そんなことまでわかるようになるんじゃないか? それに、オレの尊厳なんてやつは、物書きになった時点で失われているようなものだ。自分の恥部を曝すくらいのことは平気ですると、聊か露悪的に言わせてもらう。
 だがな、人間ってやつは勝手なもので、賢人宰相と呼ばれたあの男の死因を知りたいと彼の墓を暴こうとするやつには呪いあれと念じるさ。まして、彼の妹エリーズ姫に手を触れようなんてやつがいたら、オレはそいつを埋めてやる。
 愚かだろう?
 後の時代の批評家が、オレの詩を竜巻のごとき才気と褒めながら、感覚に奔りすぎて虚実のあやに溺れることがあり、それ故に出来不出来が大きいと述べるのもあながち外れていない。オレの政治姿勢もそんなものだった。貫き通したのは、ただ、オレの愛するものは命懸けで守るという、酷く傲慢なものだ。そんな愚かな考えしか持たなかったがゆえに、守れなかったものもたくさんある。オレから離れたひとも多かったが、オレが自ら捨てていった者の数も少なくはない。それはまた別のはなしで、語ることはないと思う。
 ただ、ひとり名前を挙げておかなければならないのは、帝都の大神官であろうか。オレは、帝国皇帝の弟で大神官であった男の手をとらず、モーリア王国の賢人宰相と呼ばれた男の手をとった。打ち寄せる波に溺れるように喘ぐ帝国を憂え、どうにかしてその崩壊を食い止めようとこころを砕いていたあの男をあの場所に置き去りにしたのは事実で、オレはそれを悔いていない。何故ならオレはエリゼ公国の葬祭長だったからで、沈むとわかっている船に乗りこむことはできなかった。
 また、帝国の崩壊でさえオレの無謀のせいのように記す歴史家には、反論させてもらう。オレ独りの行動であの帝国が沈むものか。それは浪漫主義に過ぎる。国家を馬鹿にしすぎている。帝国の崩壊は、ある程度、予期され、否、用意され、定められていたはずだ。それは別の場所で書いたのでここでは擱く。
 それにしても、喋りすぎたな。
 こんなことを語っている間に、オレを置いて、トマス青年と神官シャルルは黒衣の騎士に案内されてこの部屋を出た。語り手が油断して目をはなすとこんな具合に筋道がわからなくなる。しかも、オレは慌てて後を追うような真面目な人間じゃない。おはなしに横道や脇道がないなんてつまらないじゃないか。むろん、迂回路だけじゃなく、オレにはオレ専用の近道でさえちゃんとある。だがまあ、少しゆっくりしようか。
 それともあなたは早く先に進みたいほうかい?
 積極的なひとは嫌いじゃないよ。むしろ好きなほうかもしれない。貪欲なのは悪くない。特に、ふたりきりのときなら尚更だ。
 とすれば、オレはあなたに幾つか嘘をついてきたことを許してもらいたい。少々引き伸ばしたのは、こういう言い訳をしたかったからだ。
 オレを、許してくれるかな?
 え? はなしを聞かないとわからない。
 そうだな。それはもっともな意見だ。あなたは正しい。
 じゃあ、そういうわけでオレはちょっと失礼するよ。
 つまり、オレは実はかなりの恥ずかしがり屋なんだ。さっきも言ったろう?