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歓びの野は死の色すのことを語る

騎士

 ここで、ふたたび時をもどす。
 『騎士』をどのようにすべきかと悩み、彼のいた「時」へと帰そうとするものたちの時代へと。
 オルフェ七世を含めた四人が宰相の次の間から地底におりきったころ、ふたりの人物が古神殿に到着した。ひとりは純白の式服に泥はねがつかないか気にしながら門前へと足早にすすみ、もうひとりは一張羅の三つ揃えが濡れることを厭うたが、それにもかかわらずゆっくりと、まるで水の上をわたる風のような足取りで聖域を歩いた。ふたりは古神殿の表門でなく裏手、かつて捨て子を受け入れるためにおかれた目隠しのある扉と嬰児の受け皿がわりの張り出し窓を横目にしながら、修道院の白亜の回廊をめざし、屋根のあるそこへと辿りついた。後ろを歩いていた青年が息をもらしたのに気がついて、前をいく太陽神殿の神官は振り 返った。華奢な二本の列柱がつららのごとく並ぶ回廊はその白大理石が雨に洗われて輝くばかりに美しく、また四角い庭園の緑は目に艶やかなほどであることを、彼はすっかり見落としていた。はるばる海を越えてきた客人が、まさに旅人らしく訪問先の印象を大切に受け止めているのを台無しにするところであったと胸を撫でおろした。
 ところが、そうして神官がぐるりと回廊をみわたしたとたん、声が返る。
「失敬。待ち合わせの時間に遅れてしまいますね。行きましょう」
「いえ、クレメンズさん、もうここまでくれば急ぐ必要はありません。この回廊は、帝都でもっとも美しいといわれる女神の神殿の原型となったもので、ええとたしか、作られた時代は……」
「それはのちほど旅行案内書で確認します。さ、行きましょう」
 口ひげをたくわえた青年は神官の説明を笑顔でひきとり、その肩を抱くようにして修道院へと歩き出した。神官シャルルは自分より年長の青年に付き添われる形でそこへと足を踏み入れた。
 三十をいくつか越した新聞記者トマス・クレメンズは、エリゼ公国の《夜》を取材するのに《死の女神》の神殿やエリゼ市庁舎でなく、シャルルのいるエリゼ派の太陽神殿へと赴いた。モーリア王国でもっとも部数を稼ぐ大新聞の記者でさえ、《夜》のさしせまった日、古神殿への立ち入りは禁じられている。遠い国からきた記者は、正攻法で駄目となれば横道をいかないと、とシャルルの上司である長の前で白い歯をみせた。彼の読みどおり、政教条約締結推進委員である神官シャルルには、《夜》の研究のためにその日も古神殿へはいる権利がある。同行させてくれと詰め寄られ、シャルルは押し切られるかっこうで案内せざるを得なくなった。神殿をあずかる長が、古めかしい神殿語を流暢にはなすこの青年をえらく気に入ったからである。とはいえ彼のモーリア語、つまりこの国のことばの発音はとうてい聞けたものではなかった。長はトマス・クレメンズ記者の太陽神殿に飛び込んだ判断を善しとしたが、ほんとうのところ、ただ言葉に不自由しただけではないかとシャルルはいぶかしんだが、長の前でも、当然この溌剌とした青年の前でもその疑問は口にしなかった。また、なんとなれば、あの秘密主義の市長補佐にして公爵側近のヴジョー伯爵令嬢がこの申し出を断るにちがいないと踏んでいたのでぬか喜びさせては申し訳ないと思ったのだ。けれど現実はこのとおり、是非にもおいでくださいと満面の笑みでこたえられ、今日に至っている。
 そんなことを思い返しながらシャルルはそっと自分のとなりを歩く青年の横顔をぬすみみて、その瞳が澄みわたり、また存外やわらかなことに気がついた。鳶色の髪のさきに雨の雫がつたいおり、それが鷲鼻ぎみの鼻梁にかかるのを指ではじき、彼はふるふるっと犬のように頭をふって手櫛で髪をととのえた。そうした気取りのない仕種が長のあかるく人好きのする雑駁さと似ていると感じ、自分がすこし、この異国の記者に距離をおきすぎたと反省した。《死の女神》の神殿にくるとシャルルはいつも窮屈な思いをして、帰るころには緊張で頭が痺れるようになっていたが、トマスが傍にいれば自分の神殿にいるのと同じく振る舞えそう だと希望をもてた。
 案内された一室にはいり手巾で衣服の水滴をはらってから、シャルルは思い切って口をひらいた。
「クレメンズさん、恐れ入りますが、あなたは何故、《夜》を取材したいと思われたのですか?」
「そりゃあ、記事になるからですよ。われわれ新大陸のものにとって《夜》はひとつの神秘ですし、『歓びの野は死の色す』は重要な古典ですからね」
 シャルルはこの記者がなみなみならぬ決意でこの都にきたのであろうと想像し、だからこそそれがなにか今のいままで訊ねようとしなかった自分を叱咤するつもりで口に出したのだが、返ってきたこたえは非常に素っ気のないものだった。
「いえ、その、そういう当たり前のことではなくてですね」
 そこでトマスはくるりと頭をかえし、細身の若者の顔をじっと見あげた。見つめられたシャルルは相手の炯々とひかる両目に臆してことばを失ったが、質問されたほうはまっとうなこたえを返した。
「ああ、なるほど。私の個人的な理由ですか? それは《夜》を終えてからおはなししようと思ってたんですが、シャルルさんにはたいそう世話になりましたし、この場でおこたえするのが礼儀でしょうね。わかりました。
 私は、エリゼ派の祖・ジャンの末裔だったかもしれない男なのです」
「しかしジャンは生涯結婚していませんよ?」
「だから、末裔だったかもしれないと言ってるんですよ。私の先祖は帝国貴族です。そう、伝え聞いてます。賢聖ジャンは一時期帝都にいましたよね? そのとき結婚しそこなったのは有名なはなしだ。私はその、彼をふった貴族のむすめの、遠いとおい末裔だと教わってきたんですよ」
 トマスはすこしばかり頭の回転のわるいと思われる神官を皮肉ることもなく真剣な表情でそうこたえた。シャルルは苗字が違うといおうとして、さすがに口を閉じた。よほどの名家でなければ、女性の姓が延々と子供たちに伝えられていくことは少ない。しかしながら、ジャンと別れた令嬢のその後を彼は知らなかった。そのことを察したのか、トマスがつづけた。
「我が家は早い時期に新大陸にわたった家系だそうで、いかにも古めかしい宝物がたくさんありました。ですが、そうした貴重なものは全部、あの内戦で焼けちまいましたよ。証拠なんてひとつもない。戦争は嫌なもんだ。互いに殺しあうだけじゃ飽き足らず、過去の思い出まで踏み躙る。職もなくなるし、いいことなんてひとつもない」
 シャルルはなにも言えなかった。彼はエリゼ公国に暮らしていたのでモーリア王国の革命の余波でさえも無縁であったからだ。その沈黙をして、異国の青年は口ひげに手をやってから笑った。
「おっと、そんな暗い顔をされちゃあ困りますね。私はここへ、取材とは名ばかりで、実をいえば自分のご先祖さんであるその貴族のご令嬢に会いに来たんですよ。なんでもこの《夜》っていうのは、望めば死んだひとに会えるってはなしじゃないですか?」
「と、聞いておりますが」
 それを聞いたトマスの片眉がひょいとあがった。
「あなたは信じておられない?」
「そういうわけではないのですが。睡眠や夢について、またはヒステリーの研究はモーリア王国学士院で盛んに行われています。ぼくは《夜》に死んだひとの魂が戻ってくることについて、集団催眠という観点からも研究があってしかるべきではないかと思っているのです」
「あちらの学士院からも、どなたか著名な博士が来てるんですか?」
「そのようです。非公式な訪問だそうで情報は開示されませんが、この《夜》を取り仕切る次期葬祭長オルフェ七世殿下は文学方面だけでなく、科学研究にも鷹揚でらっしゃいます」
「あなたは、《夜》になんらかのまやかしがあるとお思いですか?」
「いえ、そういうことではないのです。まやかしやら誤魔化しという、詐欺のようなものではなくて、ええと、その、つまりぼくは《死の女神》の抱える秘密が恐ろしいのです。まだなにか隠していると感じて、それが何なのかわからなくて恐ろしいのだと思います」
「『死者の軍団』やその頭たる不老不死の『騎士』以外にもまだ何か奇蹟があると? そりゃあ、とんだ魔法の国ですね」
 トマスが両手をひろげて大げさにおどけてみせたが、シャルルは浮かない顔をして認めた。
「おっしゃるとおり、ここは魔法の国です。この魔法があるかぎり、公国は安泰でした。ですが、この魔法を解こうとするのが今回の《夜》の名目です」
「それが、『騎士』を彼のいた時代に返すというおはなしですよね?」
「ええ。国民は、例外を認めませんでした。『騎士』の不幸、その強制使役に耐えられず、彼を解放しようというのです。けれどぼくにはそれがこの国の不幸となるのではないかと感じます」
「そりゃそうでしょうね。ただで使える軍隊を放棄しようっていうんですから。誰だって、三百年も前に生きた人間が率いる『死者の軍団』とは戦いたくない。私だって恐ろしいですよ。戦争に行きましたけどね、相手は人間でした。
 それにしても、その『死者の軍団』ってやつは本物だったんですか? 私はそれこそが疑問なんですがね」
「本物という概念がどんなものかぼくにはわかりませんが、たとえ幻影だとしてもそれを見たものにとっては真実でしょうからね。《至高神》のおこす奇蹟の一端に『幻示』があります。ただし、それを証拠立てる資料もないのです」
「この国の青い雛罌粟、あれには阿片と同じく幻覚をみる作用があると考えてもなんの不思議ではありませんよね?」
 新聞記者らしい顔つきをしたトマスを仰ぎ、シャルルは曖昧にうなずいた。
「《死の女神》教団はそれに関して沈黙を守っていますが、大方の判断はおっしゃるとおりのところではないでしょうか。さればこそ、この国の『死者の軍団』 について、攻めて来たモーリア王国軍の証言が一兵卒から国王にいたるまで一致していることと、この国の将兵のそれも同じだということが恐ろしいのです。弓矢を交わす前に両軍ともに恐慌状態に陥り戦争が放棄されたにもかかわらず、いえ、もしかしたらそれゆえに『死者の軍団』というものに対するひとびとの像は固まっています。もちろん当時の識字率を考えても、文字情報の操作は不可能ではないでしょう。ただ」
「ただ?」
「不老不死の『騎士』は本物です」