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歓びの野は死の色すのことを語る

白のエリス姫

 アンリは反論せずにはいられない自分を殺したくなったが、それは言われたほうも同じ気持ちだった。だから彼女は囁くように笑ってつぶやいた。
「たしかに、死んでいるわけではない」
「ええ、そうです」
「だがな、ルネが死んでいてくれたほうがよかったと思うようになるとサルヴァトーレに言われたとき、おれは、なにもこたえられなかった」
「公爵様?」
「ルネが生きていればこの国がむざむざ侵略されることはなかっただろうと思い、モーリア王に結婚を迫られたときにも、ルネさえいればこんなことにはならなかったと思う自分が情けなかった」
「それは、ですが」
「アンリ、おれがこんなことを口にするとおかしいかもしれないが、ルネにはじめて会ったとき、彼がお伽話から抜け出してきた騎士のように見えた。おれは少し恥ずかしくて、兄の後ろに隠れたくらいだ。自分の理想がそこにあらわれたように思ったからな。あのころおれはまだ十才と幼かったが、自分の恋人は彼しかいないと、彼がおれのただ一人の騎士だと信じていた。帝都にいてさえも、彼が結婚したことを聞いたというのに、彼がおれを嫌いになるはずがないと考えていた。傲慢なことに、おれはその妻となった女性より、おれのことを愛し続けてくれていると信じて疑わなかったのだ。むろん、そうでも思わなければおれはあの黄金宮殿で生きていけなかったのだし、そうした驕り高ぶりは許してもらいたい。だがな、おれはこの国に帰ってきて、ルネがおれへと手紙をくれ、向き合ってことばを交わすようになり、彼がおれを求めてくれていると知ったとき、おれはあのやさしい腕から逃れようとした。おれは彼から愛されているというその自信が欲しかったがために、またはかつておれを守り愛すと誓った騎士を取り戻したいがために彼と抱き合い、薬をつかって無理やりに彼の力を封じて逃げ去ったのだ。
 それなのに、おれはその後いくどもルネに守られたいと願って泣いた。地下でサルヴァトーレに拘束されたときも、ルネに助けに来て欲しいと願って泣いた。そのころ彼が血を流して倒れていることも知らずにな。
 今度もそうだ。モーリア王はおれの耳に、女が王になれないのは騎士になれないからだと囁いた。あの男はおれを犯しながら、おれを守ってやると言ったのだよ」
 アンリの表情が動いたことで、公爵はひそやかに笑った。
「そなたには、聞かせてもよかろう? いや、そなたは聞く権利がある。間違えるなよ、『義務』ではない。そなたの提案した策だから、おれは話してやるのだ」
 皮肉ではない様子で彼女は笑い、それを見たアンリは、かすかにうなずいた。それを確認したエリス姫は両手をくみあわせたうえに頤をのせ、上目遣いで微笑んだ。
「おれは抵抗せず、おとなしく横になった。身体検査は《至高神》の従軍司祭殿が行った。股間に手をさしいれるときも眉ひとつ動かさないので少しばかり感心したよ。おれが何も隠し持っていないと知ったのに、王は風呂に入りたがらなかった。娼婦のひとりが気を利かせて裸になり王を風呂に入れてやったのでおれは隠れて笑った。気が小さい男だとわかったからだ。他のものをすべて外に出し、モーリア王は部屋を閉じきった。あとは、この世の誰もが知っていることだ」
 彼女はそこでことばを止めた。アンリは、この美貌の女公爵がはじめの提案のときに言ったとおり、そんなことで女は傷つかないと口にしたことを思い出していた。
「女を陵辱しその尊厳を犯し征服したと思うのは男の理屈でしかない。おれはそう思うことにしている。だが、それはやはりおれの論理でしかないのかもしれない。重ねていうが、モーリア王アドリアンはおれを犯しながら自分の妻になればこのおれを守ってやると口にした。国主の重石から解き放ってやるとも言った。 おれを哀れみ、この国の男どもはみな腑抜けだとも罵った。誰もおれを守ろうとしないとな。ヴジョー伯爵が生きていれば守ってもらえただろうにとさえも言うものだから、おれは危うく笑いそうになったよ。笑いをこらえようと、おれはひたすら頭のなかで葬儀録をさらって口をつぐんでいた。ルネの不思議な眠りは秘密にせねばならない。また、知られては手をかけられるやもしれないからな。おれはきっと神妙な顔を、もしかすると悲しい顔をしていたのかもしれず、モーリア王はやさしい声をだしておれの頬を撫でた。王は、《死の女神》の娘というからどんなに恐ろしいものかと思ってきたが、弱い女ではないかとつぶやいた。あれほどおれを恐れたことを忘れたようだった。男は、女を組み敷いた後はもう怖がらないものだ。それが、自分の自由にできた肉体であることしか覚えていられないからな。
 おれは、自分の隣で裸になっている男がルネでないことが不思議だった。いや、それが《月の君》でないことをいぶかるのではなく、ルネでないことをおかしく思う自分が不思議だったのだ。たった一晩一緒にすごしただけだというのに、十年の月日をすごしたあの方でなく、ルネのからだを覚えている自分が哀れだった。
 だからこそ、おれが、好きでもない男に押し潰されて早く終わればいいと念じているときにも、ルネは安らかに誰からも傷つけられることなく横たわっていると思うと、彼が恨めしかった。ルネが本当に死んでいれば、もう地中深く埋められて姿もなければ、おれはこんなふうに甘えたことを思わなかったに違いない。おれはあの夜、ルネが自分を助けに来てくれないとまた泣いたのだ」
「エリス姫……」
 彼女は、アンリがおのれの名を呼ぶのをはじめて耳にした。
「愚かだろう? 自分で彼を追いやっておいて、都合の悪いときにだけ助けてくれと希うのだ。そして、来てくれないとわかっていて、来れるはずもないと知っていて、それなのに、彼を叫びだしたいほど恋うて恨むのだ。
 もうおれは彼を愛しているのかどうかさえわからない。憎んでいるといったほうがいいのかもしれない。だが、あそこにああして彼がいるかぎり、他の男を愛せるわけもない。おれは結婚しないだろう。おれの夫となるのはルネだけだ。それは、間違いない」
 アンリは黙ってうなずいた。かけるべきことばは見つからず、また、見つけようともしなかった。責められるべきは自分であると知っていたアンリは、しかしながらそこで彼女の矜持をつき崩してまで怒りのことばを吐き出させようとはしなかった。それが許されるのは、やはり、彼女の夫となる者だけであると彼は信じていたのである。そしてまた、そのことを女公爵も理解していた。
「ルネをあんな目にあわせたのは、おれの無知と無力のせいだ。兄に甘え、陛下に頼り、そうして慢心したおれが月の君に欺かれ、救おうとしたルネがあんなことになった。注意深くしていれば、避けられるべきことだった。そのときに、もう誰にも騙されないし利用されないと誓ったが、そなたにまた謀られた。だからこそ、そなたを夫に迎えるのもおれの改悛には必要かと思っていたのだがな」
「わたしがそれほど油断なりませんか?」
「ならないよ。そなたはこの国を守ると言いつつ、自分の敵とみなした者は救えるはずなのに殺した」
「三年前あなたを陥れようとした子爵家一党は、おのれの利益しか頭にない貴族達ですよ」
「それは、そなたも同じではないのか? そなたはおのれの能力に自信がある。こうして爵位を授与され、名誉ある一族から妻を迎えれば、エリゼ公国を裏切って一国の主になるほうがいいと考えるかもしれぬ。そなたは自分に従う者が好きだろう。いや、おのれに背くものが嫌いだ。なのに危険分子を逃しておく甘さがある。おれはそんな男をむざむざと遊ばせておく気はない」
「わたしは王になる器ではないと承知しておりますし、ましてエミールは危険な人物ではありません」
「器の件はおいておく。君主とは、その器足りえなくとも成り得るものだからな。だが、そなたのその甘さはおれには要らぬ。子爵家はエリゼ公爵家に恨みのある一族だ。知っておろうが、大教母の夫が死んだのは子爵家の女の腹の上だった。だが、子爵家は大教母が、またはエリゼ公爵家がふたりを殺したと信じている。やってもいないことで恨まれるのは片腹痛い。だが、貴族なぞというのはそんなものだ。 
 ましてそのエミールという神官見習いは、帝都の大神官の懐にはいったのだぞ? 表向き、わが《死の女神》の教団と《太陽神殿》は友好関係にあるが、それはあくまでわが国が帝国領であるからで、今後も友好関係を築いていくことができるかはわからない。それでなお、子爵家の生き残りが公爵家やこの国に仇なすものでないと言い切れるのは何故だ」 
 公爵はアンリをひたと見つめて言葉を待った。
「あの少年を育てたのは、わたしではなく、ルネさまだからですよ」
「アンリ」
「そして、彼のただ一人の友人は、この都を混乱から救おうと奔走し、あのゾイゼ宰相を説き伏せて神殿騎士の暴走を抑えることに成功したジャンという青年だからです。わたしはたしかにエミールの目の前でその兄を殺害しました。そしてまた、子爵家の幼い子らや何も知らない使用人の命を暴徒から救うことができなかったことは認めます。貴女様はわたしがそれを故意に見過ごしたとお思いでしょうが、そうではありません。ご承知のとおり、ヴジョー伯爵家郎党は暴徒を鎮圧すべく働きましたし、それを条件にしてわたしはジャン青年、いや、神官ジャンをゾイゼ宰相のもとへ赴かせたのです。彼は宰相の企みを暴き、遅らせ、見事に城内をまとめあげることに成功しました。失敗したのはわたしです。わたしが子爵家の屋敷にいったときにはすでに暴徒が略奪した後で、家族を殺された幼い娘は正気を保っていませんでした。われわれが遅れをとったのです。わたしは初め、たしかに子爵家を征伐するつもりでいましたが、ジャンとの約束を守ろうと行動しました。誓って言いますが、わたしはそのように命令を下したのです。しかし、市内の混乱は凄まじく、また城壁内の戦に不慣れな騎士たちは身動きがとれず、わたしの命令は遂行されませんでした。結果的にはただの私刑が横行することになったのはわが不徳のいたすところであり、遺憾としか申し上げられません」
 ずっと黙ってアンリの告白に耳を傾けていた公爵は、おもむろに口を開いた。
「……そなた、あれを暴徒と化した民衆の『私刑』と見るか?」
「いえ、先導者なり暗殺者なりがいたことでしょう。手際がよすぎました」
「おれも、そう思っている」
 ひとしきり落ちた沈黙に、今日、ここに一人残されたのは公爵がこの件を話したかったからかと合点した。そして、帝都行きの本当の目的は、この事件解明のためであると心した。公爵は、表立って命じたことよりも、誰の口にものぼらせず文字にも残せない仕事にこそ、その人物の価値をおく。
 彼はこの三年、目の前の女公爵に自分が信用されていないと感じてきたが、それは誤りであったとも悟った。おそらく彼女は長く彼を観察し、試してきたに違いない。たしかにアンリは国のために働いてきたが、それを言うならかつて彼女を騙して利用しようとした男たちも、それぞれこの国のためにそうしたのだと声を合わせて口にするに違いなかったからだ。それでなお、この今、エリゼ公国のいちばんの大事を任されたのは、ただ彼がルネ・ド・ヴジョー伯爵の側近であり 幼馴染であり帝都帰りであったが故ではなく、アンリの洞察力を買ったからに他ならない。
 そう思い、彼が顔をあげて礼を述べようとした瞬間だった。
「黄金宮殿にはどこぞの帝国領の名前だけの国主など出入りするが、そなたはああいう傀儡に仕えることを厭う気はないのではないか?」