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歓びの野は死の色すのことを語る

白のエリス姫

 こたえは決まっていたが、アンリも命は惜しかった。
「皇帝陛下のご命令に背くと如何様な処罰があるのでしょうか?」
「そなたが陛下へ尋ねればよい。おれは知らぬ。黄金宮殿で申し開きして来るのだな。おれが断ったわけではないと書いておく」
 アンリは謀られたことを知って顔色を変えた。座したままの公爵は血のように赤い唇をゆがめて、こんな手にかかるとは、そなたらしくもないと笑った。
「恐れながら」
「言い訳は許さんよ。陛下はこのおれにどうしても夫を用意したいらしい。早く言えば、国の安泰のために子を産めということだ。ヴジョー伯爵家の若君よりそなたのほうがよかろうと決めつけてきた」
「私見でも、ヴジョー伯爵家のお血筋を取り込まれたほうがよろしいと存じますが?」
「あの若君にはすでに帝都に婚約者のいる身分だ。その可憐な姫君を押しのけて、ひとまわりも年上の女がしゃしゃりでては格好がつかぬ。それよりも、そなたが爵位を得たならば、その妹君をそなたに娶わせたいと思っている」
「爵位を授与すれば私生児たるわたしの卑しい身分は帳消しになるとして、二十の年の差はかまわないのですか?」
「子作りに支障がなければ問題なかろう。それとも何か、女性に対して特殊な趣味嗜好でもあるのか?」
「あると答えて貴方様のご命令をお断りしたいと思いますが、残念ながら、私は普通の男なので問題ないでしょう」
「では、行ってくれるな?」
「帝都へは参ります。知らない土地ではありませんしね。くれるものは戴きましょう。また伯爵家に異存がなければご令嬢も貰いうけます。しかし、貴方様がわたしを夫にするとお認めにならなかったと書いていただかなければわたしはここを動きません」
「何故だ」
 女公爵は秀麗な眉をひそめて尋ねた。
「選ばれるべきは男のほうだからですよ。皇帝陛下の愛人でいらした貴女を無碍にして、気分を害すのは他の誰でもない陛下です。わたしは君主である公爵様に振られた男として黄金宮殿にあがるべきでしょう」
 男というものはくだらないところに拘る、と公爵が笑ってのち、その振られた男をあてがわれたヴジョー伯爵家の姫君こそ哀れではないかとつぶやいた。アンリは肩をすくめ、それでよいのですとこたえてから真顔で続けた。
「ヴジョー伯爵家は今後、この国の中心に居座ることは許されません。わたしのような劣った身分の男を迎え入れてこそ、エリゼ公爵家と差がつくのです」
「そなたの忠義は伯爵家にあったのではないか?」
「いいえ」
 頭をふったアンリの白金の髪が散った。女公爵は、それを眩しそうに見つめながら次のことばを耳にした。
「わたしの忠誠は、ルネさまただ御一人のためにありました」
「それゆえに、その恋人であった女に尽くすと?」
「貴女様に尽くしてはおりません。わたしは貴女様を敵国の王に譲り渡した男です。ルネさまがいらしたらけっして許しはしなかったことを行いました」
「さきほどああ言ったが、おれは、あのときそなたがいてくれて助かったがな」
「そう言っていただけると恐縮します。ですがわたしは次に同じことがあるとしても、貴女様のお命よりこの国の存続を重くみます。ルネさまが十三年前にそうして貴女様を手放し諦められたように、わたしも、公爵家の名誉や存続より、また貴女様のお命よりも、この国を守ることに専念します」
「そなたの子等もそうであれかしと、おれは願う」
 エリゼ公国のエリス姫はそういって、瞳を閉じた。
 アンリはその麗しい相貌を目にうつし、いささか唐突なくらいの想いで、この方はやはり女神の娘であられると感じた。何故いまきゅうにそんなことに気づいたのかは、神殿にある大理石の彫像がちょうどこのような角度でうつむいた姿であったのだが、ながく太陽神殿に起居し、城勤めになった今は誰かの葬儀でもないかぎり女神の神殿に赴くこともない彼にはわからないことだった。
 それから彼は、爵位の授与のためだけに帝都に行かされるわけではないと察して、その件もたずねた。すると、公爵は一瞬なにかを忌まわしげに感じたときのように眉を寄せてから書類をさしだした。
「そなたの探していた男、帝都の大神殿から消えたそうだ」
「エミールが?」
 大神殿へ出入りのある密偵から送られてきた手紙には、この一ヶ月、大神官付き秘書官をしていたエミール・ド・ポンティニーの消息がつかめないと書いてあった。ヴジョー伯爵家はもとよりエリゼ公爵家もまた、公都を混乱に陥れ、彼らを欺いた貴族たちの首謀であるポンティニー子爵家の長子を引き渡すよう、帝都の大神官に要請していた。しかしながら大神官は頑として首を縦にふらず、エミールを匿いつづけた。
 公爵はアンリの顔をみずに口にした。
「大神官の容態が悪いらしい。ちょうど一月ほど前から臥せっていると報告がある。それに乗じて殺されたか、はたまた自ら危機を察して逃亡したか」
「大神殿からの逃亡は、事実上不可能です」
「では、消されたのだろうな。大神官の気に入りだったそうだから、逃げ出したのでなければ、次の大神官候補にでも誘拐されて拷問されているか殺されたかどちらかだ」
 アンリの手が震えていた。いや、手は震えてはいなかった。だが、紙がかすかに揺れた。それを見咎めた公爵が問う。
「どうした、アンリ?」
「……なんでもありません」
「なんでもないという顔ではないぞ。そなた、実は腹芸が苦手だな。念のため、そなたらの神殿にいたジャンという青年の村にも密偵は送ってある」
「その必要はないでしょう」
「何故だ」
「死んでいるものと考えたほうがいいからですよ」
 公爵、否、エリス姫は口をつぐんでいたが、アンリがそれ以上なにも言わないとみて声をだした。
「そなた、何故その男を守ろうとする」
「無実だからです」
「無実かどうか、取り調べもしないではわからないではないか」
「わたしが保証します。彼は何も知らない」
「かもしれぬ。おれは裁判もなくその男を裁くつもりはない。だが、審理は必要だろう。なにしろ彼は子爵家の長子であるし、また下手人の近親者でもあり、その人物と何度も会っていたのだからな」
「月神の許で育てられた暗殺者は、けっして他者に秘密を漏らしません。暗殺者の身元確認がすんでいるのですから」
「そなたが同じ神殿にいたからという理由だけでその男を庇い立てするとは思わない」
「もちろんそんな私情ははさみません」
「では、同じく何も知らなかったであろう彼の幼い妹や弟たちを殺害した罪滅ぼしのつもりか?」
 アンリは辛うじて表情を取り繕った。
「あれは、わたしの失策でした。責任は感じておりますが、殺害したわけではありません」
「嘘をつけ。そなたはこの街の反ヴジョー家貴族たちを一掃するために暴徒達の私刑を見逃したのだ」
「それは、エリゼ公爵家の方々も同じでしょう」
 そこで、エリス姫は何がおかしいのか声をたてて笑った。
「ああそうだ、同じだよ。だが、おれはそこにいなかったのだ。おれは愚かにも敵の手に落ち、サルヴァトーレとともに地下で蹲っていただけだ。さらにいえば、おれは、自分の従者として連れてきた男におのれの恋人を殺された女だ」
「……ルネさまは、死んではいません」