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歓びの野は死の色すのことを語る

白のエリス姫

「公爵様」 
 騎士アンリは常に、どんなときでもこの国の君主を名前では呼ばない。それどころか、故意になのか、たまにその敬称を男性名詞と同じように発音する。呼びかけられたほうも同様に男言葉を用いているためそれで問題にはならないが、居心地の悪い思いをする側近たちもいなくはない。
 今日は、後ろに控えていたサルヴァトーレの一番弟子が責めるような目つきで彼を見たが、もとより呼ばれた本人が気にしていないのだからアンリも気にしようもない。
 卓上には、鳥人が描いたとしか思えない精密な地図と、船の模型がおかれている。今まで筏で航行していた河を運河に仕立て帆柱のついた船をはしらせようというのだ。百年二百年かけての大事業を、この女公爵はいとも簡単なことであるかのように許可した。どこからその資金を調達するのかとアンリは頭を痛めたが、それもおそらく自分の仕事になると割り切って、モーリア王国の戦争捕虜たちからせいぜい金を巻き上げようと決意した。 
 そうして話が終わるのを待って机のそばに進み出た彼に、女公爵はちらとも視線もよこさずに問うた。 
「騎士ヴァトーの健康状態は如何に」
「視力は持っていかれましたが一命は取り留めました」
「そうか」
 モーリア軍追撃の先鋒をつとめ稀にみる勝利をあげた男の容態に、彼女はことば少なく頷いた。ルネ・ド・ヴジョー伯爵の元扶育官であったニコラ・ヴァトーとは知らない間柄ではないとアンリも理解していたが、実をいえば、はっきりとしたご下問があるとは予想もしなかった。今までであれば、この主君は自分の手のものをつかってそのあたりは勝手に調べ上げるものと思っていた。彼は自分が驚いた顔をしないですんだか不安になったが、主君の顔は地図のうえに伏せられたままであった。
 彼女はそれから頭をおこして目顔で水路図と模型をさげさせた。サルヴァトーレは弟子とともにいったんは退出の礼をとったが、少年だけ送り出し、自分は扉近くで控えていた。
 アンリは、いつかこの男に背中から刺されるかもしれないと思いながら、物憂げな顔をした公爵を注視した。彼女はその視線にこたえるように呟いた。
「これで死者三十七名か」
「こちらの軍では」
「あちらの死者数に比べれば奇跡のような少なさだが」
「モーリア軍の殿を務めたのは、わがエリゼ公国から流れた下層民であった可能性も否めませんね」
「……これに懲りてモーリア王がしばらくこの国を襲うことがないといわれても、あくまでも予測でしかないしな。おれがあと数日、国王を引き止められればよかったのだが」
「さすがにそれは無理でしょう。あの国の将軍たちも愚かではないのですから。ゾイゼ殿の裏工作が功を奏し、結婚の約束を反故にできただけでも上出来です」
 降伏を申し出たのはアンリの策略であった。頑なに抵抗して城をあけず押し入られて虐殺されるよりは、自国民の安全を買った。モーリア軍はたかが数発の大砲で怖気づいた女城主と甘く見て、意気揚々と門をくぐり、歓待を受けた。搦手から、アンリ率いる大軍が《黄金の丘》から押し寄せているとも知らず。
「……お身体の具合は?」
 アンリが懼れていたことは、この気丈な女公爵が妊娠などしていないかどうかであった。《死の女神》教団にはその手の秘術が山とあると聞いていたが、こればかりは男の身である彼の想像を超えていた。
「おれか? おれはなんの変わりもない」
「それはようございました」
「よくはないだろう。あの男の子を孕めば、王位継承権をたてにしてモーリア王国を獲れたとそなたなら言うと思ったのだがな」
 挑発するような目つきに、アンリはわずかにたじろいだ。これだから、この方にお仕えするのは楽ではないと反射的に思う。
「そのおつもりなら、尽力させていただく所存でありますが」
「そなたには任せぬよ」
 さすがに肝が冷えて、アンリは気弱な本心を口にした。
「わたしの策がお気に召しませんでしたか」
「いや」
「では」
「おれが気に入らんのは、おれの無思慮だよ。おれは戦争のことはわからんが、深く考えればそなたの行動は読めたはずだ。モーリア軍の予期しない襲撃を受けて、おれはあのとき不安になったのだ。だからそなたの言いなりにおめおめと囚われの身になり、そなたに全軍をあずけた。そなたは職務を全うしただけのことで、この不機嫌はただの八つ当たりだ。だが、許せとは言わんよ。そなただとて理解しているはずだ。死んでいくものには国など関係なかろう? しかも、おれは生きてここにいる。それなのに、大量殺戮者であることを引き受けることすらできずに八つ当たりし、被害者面で敵を罵りたくなるのだから情けない」
「ですが貴女様はその身を犠牲になさって」
「行かず後家が駿馬を宛がわれて喜んだと噂する者もいると聞いたが」
「エリス!」
 後ろからかかった声に振り返らずにはいられなかった。この男、公爵を自分の女のように呼ばわるのかと、憤りよりも前に不覚にも感嘆した。そして名を呼ばれた公爵は呆れたようにため息をつき、近寄ってきた男の顔に、凍るような視線を投げかけた。
「トト、おれとアンリの話に口を挟むな。それにな、ひとの噂とはそういうものだ。おれは納得して役目を引き受けたし、笑えることに、あの男は心底おれと結婚したかったようだし、それはいい。モーリア軍の駐留中、死者は出なかったが怪我人は十名を越えている。かの国の兵士どもを宿泊させた屋敷では、嫁入り前の娘が輪姦された例もある。娼婦を動員してやりすごしたが、ひとに言えぬ目に遭わされた婦女子はまだあろう。男も同じだ。食事が気に入らないと殴られ続けたものもいる。被害届けを受理し、今後の賠償をどうするのか、またモーリア王国との関係をどうするのか、捕虜の件や何やかや、おれとアンリにはまだまだ仕事があるのだ」 
 事実上の退出命令を下されたのに、サルヴァトーレは動かなかった。
「トト、おれは出て行けと言ったつもりだが」
「この男とあなたを二人だけにするわけにはいきません。この男は、あなたが傷つき血を流す、生きた人間であると思っていないのです」
 不機嫌そうに眉を寄せていた公爵は、その言いようには口の端をあげた。次に彼女がなんと言い出すか、アンリには測りかねた。
「君主とは神に似たものだと言ったのは、古代の哲学者だったか?」
「いえ、帝国に離反したレント共和国の貴族です」
 公爵の問いに、アンリがこたえた。
 あれは建国の祖だったな、とひとりごちた女公爵はそこに立ったままのトトに虫でも追い払うように退出を命じた。言われたほうの唇がわずかに震え、アンリはそれを目の端にとらえたが、主君から視線をずらさぬようつとめた結果、トトには気づかれなかった。いや、正確には、サルヴァトーレは女公爵をしか見ていなかった。
 だから、彼が一礼して踵を返したときにもアンリはそれを無視した。背後で扉の閉まる音を聞くと同時に、主君は笑って述べた。
「そう緊張するな」
「公爵様?」
「そなたをとって喰うために二人だけになったわけではない」
「失礼ですが、わたしはそういう冗談は嫌いです」
「おれも嫌いだよ。だが、そういう冗談が好きなものもいる。皇帝陛下から書状が来た。そなたに先日の功績を讃え円卓の騎士として伯爵位を授けてやろうというのだが、受けるか?」
「恐れながら、先日の指揮をとったのはヴジョー伯爵家の若君にございます」
「弱冠十三歳の少年の初陣にあの勝利は箔がつきすぎたな」
「勝ちすぎましたか?」
「殺しすぎたと言っておく。あそこまでしなければならなかったと言われれば、それもわからなくはない。モーリア王はしばらくこの国に手を出すのはやめて、河を渡ってちょくせつレント共和国に進むだろう」
「そのように、仕組みましたから」
 女公爵はそう言ってのけた男の顔をのぞきこみ、さらに重ねた。
「で、受ける気はないのか?」
「土地を貰えるのでしたら考えますが、土地なし貴族ほど哀れなものはありません。称号は邪魔なだけです」
「そなたなら、モーリア王国の半分も掠め取ることも可能だろう」
 アンリは珍しくどうこたえようか逡巡した。戦争で勝つことは容易いとまでは言わないが、ヴジョー伯爵家の郎党を率い、この女公爵の後ろ盾があれば領主を殺して土地を奪うことは不可能ではない。その後の諸処のことは別にしての話である。しかしながら、目の前の女公爵が戦争を嫌っていることは誰もが知る事実であるし、アンリ自身も国主になりたいという野望は持っていない。いや、それはかつて少年時代の彼の胸のうちに幾許かの野心としては存在したかもしれないが、今はない。さらには、彼はさきほど公爵が敢えて口にしなかった皇帝の意思を鑑みて、ついぞ感じたことのない、言いようのない怯惰に襲われつつあった。
 そして、エリゼ公国の国主たる人物は相手の弱気を見過ごすほど優しくはない。
「アンリ、おれと結婚する気はあるか?」