白のエリス姫
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そして、宰相の次の間に落ちた沈黙をわずらわしく思ったのは異国の大使ではなく、それを自らつくりだしてしまったオルフェ七世のほうだった。彼は自分の不器用さに苛立つかわりに少々おおげさなくらいに落ち込んで、では、これにて失礼させていただきますと口にした。橘卿は、目の前の青年はアンリエット嬢に用事があったのではないかと思ったが、それをあえて問題にしないだけの分別という名のやさしさがあった。ところが、往々にしてそうした分別も思いやりもないのが身内 というもので、まさに彼が退出しようとしたそのとき、この国の公爵アレクサンドルとその副官アンリエットが黄金の角笛を吹き鳴らすがごとく堂々と入室したのである。
「ふたりしてどうして……」
唖然としてつぶやいたオルフェに向かい、女装姿の公爵が呆れ顔でこたえた。
「オルフェが脱走したと報せが来た。かわいそうに、この雨のなか鳩が知らせてくれたよ。とすれば、ここ以外に来る場所はないじゃないか。鳥首国の大使閣下に失礼があってはいけないと思いとるものとりあえず急ぎ馳せ参じたんだよ」
ごく早口な小声であっても橘卿は自分の身分が名指されたことを気がついて向き直ったが、アンリエットが目顔で大使のことばを止めた。彼女の淡い緑色の両目は、顔かたちは瓜二つながらまるで雰囲気の違う兄弟の会話を邪魔するものは許さないとでもいうように煌いたのだ。彼女は先ほどと違い、男物の服に着替えていた。ちょうど橘卿の着ているような黒の揃いは、純白のアレクサンドルと並びあい、互いを引き立てた。そしてまた、橘卿はオルフェの着ている黒衣は、このなかの誰よりも深い、まるでほんとうに夜闇ほどの漆黒であるとも気がついた。染が、違うのである。
「僕は、脱走したわけじゃない」
「《夜》を前にした葬祭長が古神殿から離れるのが脱走以外のなんだっていうのさ?」
「《夜》は永久に来ない」
「オルフェ、なにを言ってるんだ?」
公爵の赤い瞳がほそめられた。だが、次の瞬間には橘卿という他国人がそこにいることを念頭におき、表情をあらためて弟に命じた。
「ともかく、その話は後だ。われわれはタチバナ卿を地下道へとご案内申し上げなければならない」
「地下へ?」
眉を寄せたオルフェは反射的にアンリエットのほうを見た。説明を求められたと知って、彼女は双子の兄弟ではなく、客人へと顔をむけた。
「タチバナ卿、この度の政変によるあなたさまのご身分の変遷についてわが主君と話し合いましたが、いずれにせよ、わが国は鳥首国と通商条約を結びたいという方針にかわりはありませんでした。そしてまた、あなたさまがこの国に親しみをもってくださっていることを考えますれば、わたくしどもはあなたさまにわが国のもっとも知られざる秘奥をお見せすべきと決めたのです」
「おそれながら、そのような厚意をお示しくださるのは身に余る光栄ですが、祖国へ帰りましても御好意におこたえできるとは限りません。わたしはそのような力を持つことが許されない身分ですし、主上が条約についてどのような御意をおもちなのか推し量る術もありません」
落ち着いた声音でこたえた大使に、公爵が微笑んで返答した。
「ご心配はいりません。われわれのこの《地下機構》の件をお伝えすれば、必ずや条約を結ばれるご決断をくださるものと思いますし、わが国は閣下の帰国にともなう資金を援助し、かつ貴方様の御身分をお守りすべく最大限尽力いたす所存です」
大使はそこで朱唇をかみしめた。そのようすに、オルフェが兄へと声をかけた。
「公爵、タチバナ卿のお考えというものあるだろう。条約の件はともかく、そのような申し出こそが非礼にあたるのではないか?」
アレクサンドルが口をひらく前に、アンリエットがこたえた。
「オルフェ猊下、鳥首国の国家機構の変遷により送金が途絶える可能性は高く、そのことは卿もご存知です。だからと申しまして、わが国が卿の身の上の不運をして条約締結を推し進めると猊下に思われるのは心外です」
「アンリエット様」
橘卿の小さな、人形のように整った顔はいまや蒼白に見えた。宰相代理をつとめる伯爵令嬢は、その珊瑚色の麗しい唇をほころばせてこたえた。
「なんでしょう、大使殿下」
「わたし……わたしは、その……」
このとき橘卿を名乗っていた人物をとらえていた困惑は、アレクサンドルのそっけないひとことによって救われた。
「殿下、あなたは私をみて奇異に思われますか?」
橘卿は返答を思いつくことができなかったらしく、曖昧に微笑み、わずかながら首を横にふった。ありていにいってアレクサンドルは長身ながら屈強な大男には程遠く、また恐ろしく端麗な顔かたちをしていたため、異性装の違和感はまるでなかった。さらには橘卿の国では男子が女役を務める演劇は珍しいものではなく、衣服はたんに性差をわけるためのしるしであると考えられていた。
「僕は女性の格好をして公爵の仕事をしています。気が向けば髪も結い上げて化粧もします。執務の邪魔にならない程度にね。わが臣民は、こんな私を国主として恥じるものではないと思っています。あなたのお国では女王の治世もありましたね。わが国もそうです。史上もっとも著名な女公爵であらせられるこのエリス姫」
彼はそこで『白のエリス姫』の肖像を見あげた。
「彼女はドレスも身に着けましたが、ふだんは男物の黒衣をきて過ごしました。そのほうが動きやすく仕事がしやすいという理由でね。まあ、ほかにももっと深い想いはあったものと想像できますが、ひとが性別によってその服装を規定されるのはこの僕には窮屈なのです。ましてや、性別やその性愛のありようによって貶められその権利を奪われることついては真っ向から反対します。僕は男だからといって戦争に行けと言われたら泣き叫んで嫌だと言います。また、アンリエットに女性としての義務をまっとうして子供を生めとも言いたくありません。
そんなわけで、わが国はよその国から見れば奇異なものにうつるでしょうし、今後この政策を打ち出していくことによってわが国の立場も変わるでしょう。
それゆえに、わが国は友好国を欲しています。
鳥首国はこの大陸の東岸の海に位置し、われわれの大陸とは違う神を崇めておいでだ。いまその神の末裔たる王族が国主であるのだとすれば、エリゼ公爵としての私は是が非でも、あなたの国と友好関係を結びたい。そのために私にできることはどんなことでもするつもりです」
橘卿はなにもこたえなかった。ただし、その面には強い驚嘆が見え隠れした。そこへアンリエットがたたみかけた。
「さればこそタチバナ卿、エリス姫が生涯守りぬいた、そしていつの日か開かれるべきと考えていた、この国とこの世界の最大の秘密を知りたくはありませんか?」
「何故、このわたしに、そのような……」
途切れとぎれの声は、橘卿の不審と高揚をつたえた。アンリエットは横に並んだ主君をみつめ、それをうけた公爵がゆっくりと、たしかな発音で口にした。
「橘卿、それはあなた御自身が、この世の誰よりも深く理解しているはずです」
おそらくは、それで充分であったに違いない。橘卿は、わきあがる興奮をおさえるかのように胸に手をあて、それから『白のエリス姫』の肖像を仰いだ。そして、そこにいる純白のエリス姫へと語るように、橘卿はいった。
「わたしはずっと、エリス姫に憧れてまいりました。されどわたしの知るこの方は、『歓びの野は死の色す』というおはなしのなかの人物でしかありませんでした。わたしはここへ来て、この方がかつてほんとうに生きていた息吹を感じたいと思っております。ですから、エリス姫が大事にされた秘密を知ることが許されるなら、わたしもそれを分け与えていただきたい。それはおそらく、ただ幸せなこととは思えません。『知る』ことによってわたしが変わり、それによって苦悩 が押し寄せようとも、ここにこうしてその機会が与えられたのであれば、それを受け入れたく存じます」
その場にいたみなの視線が『白のエリス姫』に注がれた。
エリス姫の肖像画は数多あれど、この絵ほど人口に膾炙し、また謎に満ちた絵画もない。サルヴァトーレの真筆であり、モデルが女公爵であることの二点はどの時代のどの専門家にも異論はないが、そもそもその成立はアンリエット嬢の説明ほどには簡単ではなかった。
まず、この絵には支払い記録がない。また後代の歴史家に「メモ魔」と呼ばれるサルヴァトーレの記録にも、この絵を思わせる絵画についてごく些細な記述もない。よって、制作年代の割り出しはほんとうのところ曖昧なものであった。
とすると、世間でこれをエリス姫二十五才当時の図とする所以は、ひとえに太陽神殿に残る、
純白の御衣に身を包みし葬祭長、詣でけり
という、ニコラ・ヴァトーの神殿語による日記に起因するのみなのだ。しかも日記の前後を読めば、そのころニコラは失明寸前であったというから甚だ根拠に乏しいとされても不思議はないのだが、これを疑う者はいない。ニコラが太陽神殿の神官見習いであることと(太陽神殿の聖職者は嘘をつくことは許されない)、ルネ・ド・ヴジョー伯爵の扶育官であった二点で非常に信憑性が高いとされている。
しかしながら、広く胸の刳れたリンネルの純白の衣服は、冬至の参詣には向いていない。折りしもその数日前は大雪であったことが知られている。下着姿とまではいかないが、部屋着であるとみなされてもおかしくない気楽な服装は、エリゼ公爵家当主の参詣に相応しいはずもない。よってこの絵を私的な注文だとする見方は正しいといえそうだが、当時のエリス姫にその余裕があったとは到底おもわれない。
何故ならこの年、モーリア王アドリアン一世の第一次南征が始まっている。エリゼ公国はその猛撃に屈し、いったんは城を明け渡しているのだ。降伏条件の一つとして彼女は侵略者であるモーリア王と二人だけで三日三晩すごす辱めを受けた。美貌の女公爵が解放されたのは、国王側近がレント共和国へ一日でも早く進軍しなければならないと王を急かしたからであって、公国軍兵士たちの救出の故ではない。
このとき、エリス姫はモーリア王に結婚の約束を強いられるが、新婦の純潔を問う《至高神》随行司祭の申し入れがはいり、結論が先延ばしにされた。彼女が帝国皇帝の妾姫であったと知られているため審議がもたれたのである。《至高神》によって王権を受託された国王は、この戦争の理由を乱れきった異教徒の教化・征伐とみたために申し入れを拒絶できなかったとされている。
その後は歴史の記すとおり、エリゼ公国は他国からの進撃を受けることなく、エリス姫は生涯誰とも結婚せず、おのれの姪に国を譲る。大教母を教団最高位とする制度は変わらないが、大神官の位が廃れ、葬祭長が《死の女神》教団の実権を握るようになったのは彼女以降のことである。
そして、ときは三百年ほどさかのぼる。
『白のエリス姫』成立の年へと――