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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

「ずいぶん遠慮がちに降る雨だこと……」 
 つぶやきが硝子窓にあたり、白く曇りました。そしてまた、そこにうつっていた橘卿とよばれる数え十四の少年の顔も、記憶の彼方へと追いやられたようにぼやけます。その後ろの、わたしが憧れてやまなかった『白のエリス姫』のお姿さえも、一瞬だけ、見えなくなりました。
 ――おまえは女人なのだから、万が一のことがあっても、名を惜しむことはない。何もかも忘れて幸せになりなさい――
 兄は、とつくにへ旅立つわたしへとそういいました。
 わたしの兄は、鳥首国の大君です。
 いえ、大君でした。今ほど聞いたばかりですが、祖国で大規模な政権交代が起きて、一族は更迭されたとのことです。戦がおきたという知らせはなく、なにもかもが平和裏に、滞りなくすんだそうです。兄たちがとりあえず命永らえたと知り、そのことは天に感謝しないとなりません。
 そして、橘卿と呼ばれる少年は、わたしの弟。わたしはその身代わりとなり、こうして他国へと逃れたのです。
 いま、わたしのいるのはエリゼ公国の宰相補佐であり公爵の片腕でおいでのアンリエット様の執務室。女人の身ながら一国の大事を預かる賢明な方は、知らせをうけたわたしの衝撃を慮り、こうしてひとりにしてくださったのでした。
 あの方は、わたしの近侍たちに目配せし、愚かな真似をなさるような方ではありませんでしょうと微笑まれました。わたしが女人であることを、使節一行はみな知っています。彼らはわたしが身投げしたり懐剣で喉を突いたりするとは考えていないでしょうが、それでも、このわたしを異国の地でまったくの独りきりにするとは思いもよらなかったに違いありません。けれど、アンリエット様は半刻なりとも、と彼らを説得しておしまいになりました。
 ひとりきりになって気がつきましたが、やはりわたしはひどく疲れ、それ以上に恐れていたのでした。ひざから力がぬけるように長椅子にすわり、ついにはそこにうつ伏せてわけのわからない涙を流したのです。それは、兄たちの運命を思ってのそれでなく、ただただおのれの先行きを不安に思うものでした。
 この先、わたしたちが鳥首国の正式な外交使節であることが保障されるかどうかもわかりません。それから、送金もとめられることでしょう。そしてまた、わたしが本物の「橘卿」でないと万が一にも知られてしまったら……。
 アンリエット様は、わたしが女であると一目で気づかれたようです。今まで誰にも知られなかったのに、どうしてでしょう。わたしの動揺が、なにか、女々しい態度となってあらわれていたのでしょうか?
 いくら考えても原因はわかりませんが、この部屋のきらびやかなつくり、黄金と孔雀石の華やかさにわたしが少しもなじまないことにしだいしだいに笑いがこみあげてきたのでした。それはわたしたちのうすい肉体に無理やりにとつくにの装束を着付けたときのように、内と外が逆になっても、ちぐはぐで滑稽であることは否めないのと同じことです。
 この部屋には、アンリエット様のような方がお似合いです。異国人を鬼のように忌み嫌いその習俗を厭うひとびとも大勢おりますが、わたしはとつくにの言葉をみずからすすんで学んだほど、憧れておりました。ですが、じっさいにこちらにきてからは、楽しいことばかりではありませんでした。
 モーリア王国の首都は、それはそれは華やかで美しいところではありましたが、いっぽうで、汚泥によどむ河の流れや糞便や尿のにおい漂うぬかるんだ道、そこにたむろす貧者の群れは、わたしに嫌悪感だけでなく恐れさえ抱かせるものでした。光の都とうたわれる街、その影は底知れず暗かったのです。さらには、わたしたちを物珍しげに見て眉をひそめる民人、貴族だというのに卑しげで臭くて不潔なものたちの好奇心も不愉快なものでありました。
 鳥首国はこうして振り返りますと、とても住みやすいところではありました。海に守られ国交を閉じておりましたので他国から攻め入られることもなく、また数百年争いもなかったため、ひとびとのこころも安らぎ、平らかであったのです。
 そうして今までの月日を思い返すうちに、窓に、雨粒があたりました。
 わたしはからだをおこし、窓辺へと歩きました。
 そこには、男のなりをしたおのれの姿がうつっていました。黒の三つ揃えをまとったわたしは、滴り落ちる雨の雫にふるさとを思い出して微笑みました。わたしが後にしてきたのは、とても雨の多い国でしたから。
 ですから、この、細く頼りないまでに繊細な雨が、ずいぶんと遠慮がちに思えたのです。それが先ほどのつぶやきとなり、わたしはおのれをとりもどしました。
 ここでのわたしは「空木」ではなく、大君の弟君の橘卿です。しっかりしなくてはいけません。わが身の心配などあとですればよいのです。
 わたしが憧れたのは、このエリゼ公国のエリス姫です。賢明にして、気高く美しいエリス姫。わたしは幾度、『歓びの野は死の色す』を読みかえしたことでしょう。あの本には、この、『白のエリス姫』のうつしが印刷されていました。名画中の名画とよばれるこの絵を、わたしは今、独り占めしているのです。
 これを描いたのは、帝国からこの国に移住したサルヴァトーレという画家にして万能の天才とよばれる偉人です。その生涯はいぜんとして謎に包まれていますが、この絵をみるかぎり、彼がエリス姫を敬愛していたことは疑いもないことのように思います。
 それから、その隣にならんでいるのが『アレクサンドル一世の肖像』です。
 じつをいえば、わたしが恋焦がれるように想っていたのは他ならぬこの、アレクサンドル一世猊下なのです。あの地で手に入れられる作品はすべて読みました。なかでもいちばん気に入っているのは、このエリゼ公国の素朴な詩歌と彼の詩をあつめた『野の花集』とよばれる詩集です。
 わが国の勅撰歌集のように、御題ごとにまとめられた詩のかずかずは、どれもその名前のごとく清らかな美しさと甘くやさしいかおりに満ち、気軽に口ずさむことのできる愛らしいものです。わたしはこの詩集で、この国のことばをおぼえたのでした。
 こうして仰ぎ見ますと、猊下はわたしとあまり変わらないお年です。そして、なにやら肌寒くなるほどの美貌の持ち主でございます。
 しょうじきに申しますと、お歌の印象とはかなりちがうようにお見受けしまた。
 わたしは、ひとりかってにこの方を、泉のそばでまどろむ妖精、または花咲く野をかけめぐる精霊のように思い描いていたのでした。あの歌のごとく、春の野に戯れる恋人を優しくいだく風のような方ときめつけていたのです。
 けれど、現実のこの方はそのような儚い歌の精ではありません。
 よくよく考えてみれば、この方は、その後の公国の支柱となられた葬祭長であったのです。歴史を思い返してみましても難しい時代でした。その時代に国と教団の舵取りをされた方が、清らかなばかりの妖精のように思うのは浅はかなことです。
 それに、そもそも作品とその作者は違うものなのかもしれません。
 ですが……。
 わたしは小さくかぶりをふりました。
 強く、ならなければ。
 薔薇の花びらから朝露をすくい、それをのみ集めていのちの糧とする、アレクサンドル一世の詩にうたわれる清らかで儚い乙女はこの世にはいないのです。
 わたしの弟は、兄の言いつけで国に残りました。皇族にお仕えし、和平工作に奔走したのです。彼のかわりにこの大陸を訪れたのですから、鳥首国を守るため、列強につけいる隙を与えてはなりません。その強大な国力でつぎつぎと他国を従わせようとするものたちへ、毅然として立ち向かわなければならないのです。
 かつて、わたしたちには「海」がありました。
 けれどそれは、炎と煙を吐く大きなおおきな黒船の前には「守り」ではなくなってしまったのです。
 そして――この、エリゼ公国には世界最強の守りがあったのです。「死者の軍団」という、神秘の奇跡が!
 それを、この国のひとびとは自ら捨て去ろうというのです。その軍団を率いる不死なる『騎士』を、彼の「時」へと返そうとするのです。いったい何処の国が、そんな愚かな真似をするでしょうか? この国は小さく、けれど美しくて豊かです。それは、『騎士』の守りがあったからこそ持ちえた優雅と富貴ではないのでしょうか? 何故それを自ら手放そうというのか、わたしには、それがわかりません。
 わたしがこの国に派遣されたのは弟よりも語学が達者で、わたしのほうが一見、男らしく見えたという理由がありました。弟よりもからだが大きく声もとおり、馬にも上手に乗ることができ、またそれゆえに我もつよかったのです。
 それでなお、兄はわたしに、女なのだからいざというときには名前を捨てておのれの幸福をとれと教えさとしました。
 わかりません。
 わたしには、なにが正しい道なのか、まるでわからないのです。
 しかも、この国の公爵様は、御自ら女人のかっこうをしておられるとか。それで、他国に侮られるとは思われないのでしょうか? 
 ああ……なんていうことでしょう。いったんは気持ちがおちついたはずが、また不安になってまいりました。
 条約の件は白紙に戻るでしょう。主上に政がかえったとあらば、新しく大使がたつものか、また何らかのお指図があるのかはわかりませんが、わたしの立場は以前と同じであるわけがないのです。
 されど、そもそもこの国と条約を結ぶこと、それはわが国にほんとうに益のあることでしょうか? モーリア王国はわが国を脅すようにしてこちらに不利な条約をとりつけました。それは、いたしかたありません。わたしたちはなにも知らず、力もなく、他には為すすべがなかったのですから。
 では、この国との関係はどうなるのでしょう。
 わが兄は、エリゼ公国に一縷の望みをいだいていたようでした。それは、「死者の軍団」の存在であり、この国の《死の女神》教団の神秘の力を頼みにするようなものです。それを否定しようとする新しいこの国と、わたしたちはどのように相対したらいいのでしょうか? これほど遠く隔てられていては、おうかがいをたてることもできません。
 天よ、どうか、わたしが間違いを犯しませんように。わが国に災いなすことのないようお守りください。
 この祈りはあの空にとどくのでしょうか? 
 同じく雨が降るのだから、この空は、あの島へと続いているはずなのですが。
 大陸を渡り歩いたアレクサンドル一世猊下も、さすがにわが国へはおいでになられませんでした。
 されど、わたしは知っています。この麗しの君は、わが国の天からおりてきた尊き方を詠っています。

 翅もつ
 鳥の眼をした王族の
 夢みる吐息
 闇はらう

 気のせいでしょうか?
 画布のなかの少年が、こちらへと片目を瞑ってみせたのは。