《夜》
7
影なきものに、かげあれ
理なきものに、ことわりあれ
法なきものに、のりあれ
時なきものに、ときあれ
言葉なきものに、ことばあれ
わが半身(かたみ)、光なきものよ
我は往く、われはいく
汝は……
※最終行「汝は」以降判読不能
《太陽神エリオの詞・顕現詩2巻22》より抜粋
帝都学士院図書館所蔵
カレルジ・コデックス 1124
カレルジ・コデックス――帝都学士院の膨大な所蔵品のなかで質・量ともに充実し、ひときわ異彩を放つのがこのカレルジ家の所有していた古写本コレクションである。
前世紀にはすでに血筋の絶えた大陸一の銀行家一族は、その財力と交友関係を基盤にした文化芸術のよき庇護者でもあった。
とりわけカレルジ家がもっとも繁栄した時代の当主アルトリウス(アルトゥリオ)の蒐集品は素晴らしく、彼自身、その後の印刷文字普及の際に手本となったほどの能書家としても知られている。そしてまた、この国ではエリス姫の愛人であった「月の君」ということでも著名だ。
僕の手にしているのは、帝都学士院図書館からめでたく貸与のなった『顕現詩』で、外典とも呼ばれる謎の多い書物だ。むろん、僕はエリゼ公国国主の権限を大いに用い、これを筆写するようアンリエットに命令した。
ところが、彼女はあからさまに、この忙しいときにという顔で眉をひそめ、一流の写本製作者は出払っておりますが、とまず断りをいれた。古神殿に起居する弟と違い、宮殿住まいの僕だとて、そんなことくらい百も承知だ。僕は鷹揚にうなずき、それでいいとこたえたのだが、彼女はなおも不満そうに、こちらから貸し出した書物は責任をもって取り返してくださるのでしょうねと詰め寄った。あたりまえだと返すが、彼女は白金の髪を揺らしてどうも信用なりませんとつぶやいた。しまいには、尻拭いは御免ですからと、僕の副官だというのに堂々と宣言した。
どうやら僕は彼女に見限られたらしい。
以前――といっても三年以上も前のことだが――は僕の顔を眺めてはぼうっとしていたはずが、《夜》の研究に携わるようになってから変わった。哀れむような瞳でみることはあっても、熱っぽい、焦がれるような視線をむけられることは久しくない。決定的な契機は、僕が、彼女になにも知らせずモーリア王国に潜入したときにあったのだろう。
僕の単独行動による試みが成功しない場合、腹心たるアンリエットに被害が及ぶのを避けたかったというのは出来過ぎの理由で、本音をいえば彼女が邪魔だった。その制止が、僕の身を案じる想いが、煩わしかった。
酷い言いぐさだとわれながら思う。
だが、言葉を飾ってみても事実はかわらない。
そのとき僕は、自分が男なのだと思った。などと言うと浅はかに過ぎるだろう。
君主に男女の別はない。エリス姫だとて、自分の身を挺してこの国を守った。文字通り、彼女の操と引き換えに帝都への納税を緩和され、また降伏条件の一つとして、モーリア王に自身の身柄を引き渡したことさえある。
この捕虜になった高貴な美しい女性への狼藉によって、モーリア王は国内でもいたく評判を落とし、また当然ながら大陸各国の反感を買い、レント共和国の徹底抗戦によってモーリア王国第一次南征は失敗に終わるのだが、その後の公国の追撃たるや歴史に残る凄まじさであったという。
この追撃を指揮したのが名高い知将アンリ。アンリエットの遠い祖先、彼女の筆名となったエリス姫の腹心だ。《黄金なす丘》の城代として長く伯爵家を守りつづけた一族は長身細身、白金の髪と翡翠色の瞳が特徴で、彼女にもその麗質が見てとれた。
今日のアンリエットは男装ではない。
僕が考案した、引き裾のあるドレスをまとっている。トレーン(引き裾)は一時期廃れはしたが優美さにおいては定評がある。また下着を重ねてふくらみを出し、鯨の骨をつかって形をつくるドレスよりはよほど動きやすい。まるで巨大な傘のようになった昨今の女性たちの服装は、僕の目からすると滑稽で仕方ないのだ。
背の高くほっそりとしたアンリエットにはトレーンのあることで余計に長身を目立たせることになるかと危惧したが、男装を見慣れたせいか、せりだした胸や後ろにつきでた腰に注意がむかい女性らしさの演出に成功している。
よく似合うと褒めると、公爵様のお手柄でございますと頭をさげた。嫌味な風もなく皮肉でもないと思えたのは、彼女がことさら美しく見えたからだろう。
アンリエットが「女装」しているとなると、異国からの客人が来るということだ。到着が予定より一日はやくなったのだろう。
僕は公式行事でないかぎり、ふだんから女物の装束で過ごしている。一昔ふた昔ほど前の古いドレスで、身体をしめつけず、円柱に似た優美な形のものだ。モスリンと呼ばれる羊毛の薄い平織りの生地でできていて、軽くてあたたかく重宝している。男の僕がきてもさほど違和感がないのは、古代の長衣にすこし似ているからであろう。
この布地は、当時は高価なものであったが、今では比較的安く手に入る。時代が変われば流行は変わり、ご婦人方はそれについていかねばならないが僕は違う。
そしてまた、お召しかえの準備をなどとアンリエットが言い出さないのであれば、それは、僕が客人の相手をしないでもいいということだった。
《夜》にあわせてエリゼ公国に他国人が訪れることは例のないことではない。珍しいところでは、八十年ほど前の大神官聖下の来臨もあれば、モーリア国王の列席という珍事もあった。それから、レント共和国の貴族たちはわりあい気軽に《夜》に触れたがる。彼らの崇める神が、商いと伝聞と夢の神たるエルムであるせいかもしれないし、やはりすぐ隣の国であるという気軽さのためかもしれない。
だが、はるか東の彼方の鳥首国から客人を迎えることがあるとは思いもしなかったと、僕の弟オルフェ七世なら口にするだろう。
だが、僕には不思議でもなんでもない。
これは、文化交流をお題目に唱えた「交易」だ。
われわれは、先年鎖国をといたばかりの鳥首国からタイクーン(大君)の名代としてタチバナ卿の臨席を賜ることになった。モーリア王国と通商条約を交わした使節団一行は、続いてかねてより《夜》の研究において友好関係にあったわが国へも訪問する。
むろん、お招きしたのは他でもないこの僕だ。
アンリエットは書見台に置かれた写本へと一瞥をくれて、囁くように口にした。
「皇帝アウレリウスの召喚かないますでしょうか?」
「かなわずとも、この国に損はないよ」
「『騎士』がいなくなれば、この国に攻め入ろうと画策する者もあるのでは?」
「怖気づいたのか? アンリエット」
「まさか!」
決然と言い放つ瞳に、瞋恚が見えた。
「わたくしは、『騎士』に守られるのは嫌ですわ」
「そうかな? 僕は、嫌いじゃないよ」
「気味が悪いではありませんか? あの『騎士』が敵兵の前にあらわれ、《歓び野》に散った死者の軍団を率いて戦うのを想像したことがありまして?」
「もちろんあるが……」
エリゼ公国は、無敗の軍団を抱えている。しかもそれには一切の維持費がかからなく、人的物質的金銭的損失の心配もない、恐ろしくも頼もしい「死者の軍団」を!
僕には、それが悲壮ではあるにしても薄気味悪いものではなかった。また、その古めかしい甲冑や装備も何処かしら浪漫的であった。とはいえ、彼女のいうことばは理解できる。死者に生者は敵わない。倒しても立ち上がってくる幽鬼とどうやって戦って勝てばいいのか、まずそこからして僕のような凡人の理解の外にある。
エリス姫の死後、時を知らぬ青い雛罌粟に取り囲まれたこの国は、その『騎士』と彼の率いる「死者の軍団」ゆえに不可侵であった。
いったい何処の誰が、このような恐ろしいものに立ち向かえるだろうか?
だからこそ施政者としての僕は、本音では、『騎士』をあの時代に還すという国民の決定に異論を唱えたかった。僕の一票は実のところ「反対」であった。
ところが、この件はオルフェ七世の熱心な説得ゆえに議会での審議もとおり、結果は斯くの如し。
あとはオルフェ自身の《夜》の成功にかかっている。
こうなれば、僕に出来ることは成り行きを見守ることだけだ。
そして、僕は僕で、この国の安全のため、そして国民生活を物心ともに豊かにするために鋭意努力する。
そういうことで、僕の欲しいのは、「絹」だ。
僕は、鳥首国から絹を買い取るべく彼らをお招きした。
アンリエットはこちらの顔をひたと見つめ、先ほどの話題を遠ざけるためか苦笑した。すでに決定したことをここであれこれ話しても仕方がないと踏ん切りをつけたのだろう。
「それにしても、公爵様はエリス姫にそっくりですわ」
「そうかな」
「あら、ご自分でそう思われたことくらいあるでしょう? お姿は弟君のオルフェ殿下のほうが似てらっしゃいますが、今回の修好通商条約のことといい、ご自身の美貌を用いての金策といい、抜け目のないところが似ておいでですわ」
「僕は、褒められていると受け止めていいのかな?」
「いえ、ご先祖様のできたことなら、公爵様にもお出来になって当然だとお伝えしているだけです」
「なかなか手厳しいね。じゃあ、その帝都学士院へと送ったのは、モーリア王への口利きをした返礼として《至高神》の枢機官から受け取ったものの写しのほうだと言ったら?」
「そのくらいは他の誰もがすることです」
呆れて肩をすくめそうな幼馴染へと、僕は笑って言い返した。
「アンリエットに褒めてもらうにはかなりの大仕事が必要なようだね。では、取って置きのを言おうか。地下の、見通しがついた」
「公爵様?」
「呼び寄せた技師や科学者たちが、あらかた見当をつけてくれたようだ。実用には時間がかかるかもしれないが、道は拓ける」
アンリエットはわずかばかり息を弾ませたかに見えたが、すぐに平静を取り戻して微笑んだ。
それでこそ、わたくしの公爵様だとその顔が語っていた。