《夜》
6
「野蛮でけっこう。この世の秘密が其処にあると知りながら、手を出さぬものの気持ちが私にはわからない。それにより、救われる者もあるだろうに。なにも、『騎士』の肉体を本当に切り刻めと申し上げているわけではない。たしかに眠っているものの肉体を勝手にするのはいかにも卑怯なうえに、彼は世にも名高いヴジョー伯爵であらせられる。しかし、彼だとて、このまま時の終わりまで眠っていていいとお思いなわけもないのでは? それを、手も触れないとはおかしなことだと常識でものを申しているのです」
「なんといわれましょうと、遺言に反する時点でわれわれエリゼ公国民はそれを選びませんよ。彼の眠りは彼のものです。好きで眠っているかもしれぬものを起こしていいとも思いません。それに、閣下のいう論理は大勢のものを生かすために少数を犠牲にせよという乱暴な謂いにすぎない」
「騎士とは、己の身を挺して寡婦と孤児と貧者、つまり弱き者を庇護する存在ではないのかな?」
「そこに異論を挟むつもりはありませんよ」
「ならば」
「閣下」
オレはそこで間を置いた。彼は一歩ちかづいて、探るように両目を覗きこむ。ほとんど黒にちかい褐色の髪を夜風がさらい、彼はそれを気にして耳にかけた。オレはおとがいを軽くそらして言いのけた。
「『騎士』に、似ていると言われませんか?」
愕いたふりをすることがあっても、ほんとうの意味で驚愕することを忘れている彼が、そのとき僅かばかり瞳を大きくしてみせた。それから、オレの口許にうかんだ微笑を受けとめて、小さくつぶやいた。
「エリーズだね。きみにそんなことを話したのは」
エリーズ。
彼の整った唇からもれた女の名は、胸のうちにこれ以上なく甘やかな震えをもたらした。その快い漣はその名前の持ち主の優雅で上品な、屈託のない、やさしい会話をも思い出させた。
オレはそのころ、モーリア王国サロンの主役である教養ある女たちに骨抜きにされていた。侃々諤々議論を戦わす帝都学士院の神官や学者たちの姿は、オレの目には、己の論理に拘泥しかつ自身の栄達のために他者を蹴落とす我欲にまみれにうつっていた。帝都学士院の招聘を断ってモーリア王国に来たのは、政治的状況を鑑みた理由もあるが、当時のオレの好みが大きく働いていたのは間違いない。
「王弟夫人は『騎士』の絵姿を階段に飾らせたことがあるとか」
「猊下、貴方がそんな戯言を信じていたとは驚きますよ!」
大げさに両手をひろげてみせた彼は、お仕着せ姿の侍童の運んできた銀の盆から杯をとりあげてこちらへとさしだした。礼節を常に重んじる彼ゆえに、その無作法すれすれの馴れなれしさが故意になされると絶大な威力を発揮することを、彼は熟知していた。
「庶民の楽しむような林檎酒ですが、猊下には珍しかろうと運ばせました」
「ちかごろ評判の葡萄酒を頂戴できるものと思っておりましたが」
「私にも、また亡き王弟夫人である私の妹にも、《黄金なす丘》を領地とするエリゼ公国の御方にわが国の葡萄酒を振舞うなどと、そんな蛮勇の持ち合わせはありません」
美食家でつとに有名なさきの王弟の妻となり、二年で寡婦になった彼の妹エリーズ妃は、その領地を第二の《黄金なす丘》にすべく日夜研究に勤しんでいるという噂でもあった。大陸で確固たる地位を築いていたエリゼ公国の葡萄酒は、この頃からモーリア王国の追撃にあう。エリゼ公国はこの後も品質という点においては勝ちを譲ることなく君臨するが、葡萄酒販売量とその金額において、モーリア王国に大きく差をつけられていくのは歴史が証明しているとおりだ。その発端が、この賢人宰相の政策のひとつであったこともまた世に知られている。
オレが杯に口をつけるのを待って、彼がきいた。
「いかがですか」
「朝焼けの海を船で漕ぎ出す期待に満ちて、晴れやかな味わいがある」
エリーズが聞いたら喜ぶでしょうとうなずいた男の顔を眺めながら、オレはモーリア王国首都の新しい海港計画を寿いだつもりでいた。彼の北方の領地で産するこの林檎酒は、われわれふたりの計画が成った証でもあった。
沈める帝都よりこの国を選んだのは、より金が動くほうを大事にしたかったからだ。この初めての訪問の第一目的は、エリゼ公国から木材と石を輸出する手筈を整えるためだった。教養人としての辞書編纂なぞというものは二の次だ。それに、ふだんは葡萄の絞り粕に水を通したものばかり飲んでいたオレには、林檎酒でさえ贅沢な品でもあった。
そういえば、彼の城にいるあいだ、オレは些細な不満や違和感さえもおぼえたことがなかった。帝都学士院や落ちぶれた黄金宮殿で酸っぱい葡萄酒を飲まされるのとは雲泥の差であった。オレの足がその後もモーリア王国にばかりむいたのは、彼らのこうした歓待のせいだともいえる。
杯を返すと、オレと二つ三つしか年の違わないであろう少年は、オレの葡萄酒色の瞳をもの珍しそうに見つめて頬をそめた。彼は呆れ顔で少年を追い払い、続けて軽口をもらした。
「貴方が宮廷に参内すれば、わが国の名花たちはさぞや面目を失うだろうと少々不安になってまいりましたよ」
「この国いちばんの美しい花は、この城に咲いておりますよ。私とそう年の変わらない若き国王陛下のいる宮廷より、この城でその花と、花の守り人たる騎士と語らうほうがどれほど楽しいことか」
オレの素直すぎる本音を、あの男は鷹揚に微笑んでうけとめた。
癖のある髪と血色のよい頬、頑健でいながら優雅さを備えた長身は、なるほど『騎士』によく似ていた。何よりもその落ち着きが、古めかしくも美しい騎士の姿を思わせた。
「猊下を独占できるのは無上の喜びではありますが、ひとめなりともお姿を拝見したいと宮廷では大勢の人間が待ち構えておりますし、拝謁をたまわりたいと願うひとびとが列をつくる有様です」
「私は田舎者ゆえ、華やかな場所は苦手ですよ。むろん、今日お引き合わせいただいた詩人のみなさんとお話できるのであれば、何処へなりとも駆けつけますが」
彼はモーリア王国の実利とエリゼ公国のそれをはかりにかける一方で、学士院の文法家や小説家、サロンの華麗なる主たちへも気を配ってくれた。後年、オレがモーリア王国に立ち入らなくなったときにも彼らとの付き合いは続き、またオレを頼って亡命をしてきたものを受け入れることもあった。
「彼らも同じ気持ちでいることでしょう。あの十二音綴詩の艶麗さは後々までの語り草になるに違いない。筆写させたものを記念に詩集として綴じさせます。私の好みでさせていただいてもよろしいですね?」
オレに否やのあるわけがない。
このときばかりは本心から少年らしく満面の笑みで頷いたらしいオレを、彼は瞳を細めて見つめていた。それから、ふいに顔を伏せてつづけた。
「貴方は、宮廷が苦手なのではなくて、その軽薄さや不埒さを憎まれているのだ。されどお引き合わせしなければならない人物の多くはあちらにいる。多少の不愉快さはその花のようなお顔に素直にあらわされるといい」
「閣下、私がなにか粗相をするように思われますか」
オレはきゅうに不安になった。エリゼ公国にも宮廷はあるし、サロンもある。だがそれは、きわめて小さく狭い世界のことだ。他国から客が来るほどの華やぎはない。
「いや。宮廷は、きみのような人物が清新な風をふきこむことを嫌わない。だが、長くそこにとどまることを許されるわけではないし、また、この国には居つくことをしないだろう。きみがエリゼ公国の葬祭長でなかろうと、きみに、この国は似合わない。エリゼ公国を流れる川は澄んでいるが、ここにあるのは泥水だ。汚泥だよ」
「そうとばかりは思えませんが」
「今はまだ目が慣れていないだけだ。きみはきっと、いつか、この国の真実の姿を知り忌避するにちがいない。私はそのとききみをここへ呼び寄せ引き止めることができないだろう」
その予言めいたことばに、オレは無言でいたはずだ。どうやって会話をつづけたらいいかわからなかった時点でオレは自ら田舎者であると認めたし、また彼と対等の友人になれていないと寂しく感じていた。
それはともかく。
オレのこうした昔語りにいったい何の意味があるのか、オレ自身が考えているところだ。あのころのオレはほんとうに若く、世の中のことを何も知らず、ただ、死者の囁きごとに耐え切れず、溜め込むことができぬゆえにものを書いた。吐き出し、ぶちまけ、書き殴るという言い方が正しかろうそれは、新様式として学士院で受け止められたが、要は、見よう見まねの猿芝居、たんなる若書きでしかなかったはずだ。
誰よりもオレが、そのことを識っている。
何故ならあの夜、オレはオレの書いたものを、他ならぬ彼に断罪してもらいたかったのだ。
もしくは、彼の妹エリーズ姫に、通り一遍ではないことばをかけて欲しかった。己の不安や自信のなさを、誰かに見抜いて欲しかった。そして、彼らなら、それができると信じていた。
だが。
あのふたりは、オレの『歓びの野は死の色す』についてだけは、何もいわなかった。言えるはずもないと、今のオレは理解できる。『騎士』に執心したのも、またエリス姫の遺言を遵守する公国民を不審に思うのも、彼らふたりには故のあることであったのだ。
あの男はオレの《夜》を、「祭り」と言い切った。
それをオレが知ったのは、彼の死後のことだ。彼は、オレに自分の覚書を編纂するよう遺言をよこしてきたのだ。他国人のオレに、一国の宰相であった男が覚書なんぞを渡すとは、狂気の沙汰としかいえまい。
違うか?
それともそれは、あの大国の宰相をつとめた男の人生を懸けた大いなる悪巫山戯か?
嫌がらせか?
でなければ、オレを恨んでのことか?
オレは、あの男に憎まれていたのか?
いつでも理性的であった男の最後の乱心に、オレは笑った。
高らかに笑った。
エリス姫の遺言を遵守するオレを愚か者だと罵った男が、オレに何を期待してそんなものを寄越したのか、オレにはわからない。
オレは、あの男の死のときに間に合わなかった。
讒言によって貶められ捕縛された彼を救うことができなかった。同時に、誰よりもあの男を愛した女性の死をも、妨げられなかった。
彼らが死んだのは、王家の策謀のためではない。
歴史家は、誇り高い彼が投獄されたことに耐え切れず自死をはかったと書くが、それは違う。また、彼の妹エリーズ姫が心労により倒れたと書くが、それも誤りだ。
オレは、識っている。
彼らは、ふたりで生きることができなくなったために自ら命を絶ったのだ。
自分たちの愛が、かつて、その国の王子を死に至らしめたことを、彼らはけっして忘れなかった。だから、国王となった男に逆らわなかったのは、それが肉親を殺されたことの《復讐》であると承知していたからだ。
何故、オレはこんなことを知ってしまうのだろう。
彼らは何故、オレにだけわかる形でそれを伝えてきたのか。オレが何かを読み間違っているのだろうか?
様々なことばが、その表象が、標が、紋章が、オレのあたまを行き過ぎる。そのすべてをあやまたず、オレが理解できているのかはわからない。
だが、オレは、彼らの声が聞こえる。聞こえてしまう。
オレは、オレには、そのことがわからない。
何故、オレを選んだのか教えてくれ。
誰でもいい、オレに、その意味を教えてほしい。
皇帝アウレリウス、あんたなら、そのこたえを知っているんじゃないか?
いいかげん、出て来い。
出てきて、語れ!
それとも、オレなんかの呼び出しに応じるのは不快か?
え?
すべてなる源の、光の主よ!