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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

「アレクサンドル一世猊下、だいたいあなた様はわがまますぎます!」
「我が儘とはなんだ、ワガママとはっ」
「僕が呼び出しもしないのにこうやって御出でになるからですよ。大役を控えた僕を慮って少しは休ませてくださってもいいじゃありませんか」 
「オルフェ七世よ、貴様がオレを呼び出さずに、このオレ様がのこのこやってくると思うのか?」
「え……じゃあ、僕が、お呼び出し申し上げているってことで?」
「当たり前だ。オレは死人だぞ」
「すみません。僕はてっきり、その……僕のほうがあなた様に呼び出されているのかと……」
「ほう、その秘事は識っているのか?」
「ええ。大教母さまから、あなた様は未来における死人をもお呼び出しできたと伺っていたので」
「呼び出せたわけではない。あちらからやってきたのさ。オレの力じゃないが、それをひとが『ちから』だと論じるのは分かる。
 オルフェよ、何を不安がっている。このオレ様をやすやすと召喚しながら、追い詰められた兎のように必死な形相でいられてはオレの立場がなくなるじゃないか」
「僕は、あなた様のような御立派な方と違います」
「御立派ときたら褒め言葉とは云わないね。まあ、気持ちはわからなくもない。そりゃあそうさ。オレ様は自分で口にするのも恥ずかしいくらい有名人だからな。歴史上初の男の葬祭長で、《夜》を今あるような形にした功績も偉大」
「しかも処女作である『歓びの野は死の色す』の本も売れて、よその国から当代一流の教養人として引っ張りだこでしたからね」
「ああ、その話が出たなら忘れないうちに言っておく。貴様の覚書、綴りの間違いが多くて見苦しいぞ」
「読んだんですかっ?」
「オレはひとの日記を読むほど恥知らずじゃないさ。貴様が夢んなかで気にしてるだけだ。辞書くらい引け。貴様のいる部屋にはオレ様が精魂込めて編纂してやったモーリア学士院辞書があるだろ」
「あれは覚え書だなんていう大層なものと違って、ただの備忘録ですよ」
「それを覚書というのじゃないか?」
「あなた方の時代と僕の時代は違うんです。何事も軽佻浮薄化してますからね。それに、あなた様のように僕の日記が死後に出版されるはずもないからいいですよ。
 そうだ、この際だから僕も言っておきたいんですが、辞書の編纂はともかく、どうせ学士院に行くなら帝都のそれに行ってくれたほうがこの国の独自性が保たれたように思いますよ? この国はその頃はまだ、帝国領だったのですから」
「モーリア王国の宰相殿に招聘されたのだから致し方ないだろ」
「帝都の大神官聖下からも引きがあったと聞きますよ?」
「それは事実だが、事情があったんだよ。政治上の駆け引きっていうものがね」
「覚え書にも残せない?」
「オルフェ七世よ、オレ様のかいた覚書が古神殿で詳細に研究され尽くされているのは知っている。だが、ひとこと言っておけば、誰にも読ませる心積もりもない物を書くだなんて、オレには到底信じられないね」
「でしょうね」
「つまり、そういう事だ。書かれていることを鵜呑みにするほどオツムの具合が緩くては、この国の葬祭長にはなれんだろ」
「そのくらいのことは、わかってます」
「ならば訊くが、『騎士』は……」

  騎士は、キシは、きしは……――

 邪魔がはいったか。
 おのれの声が悲鳴にも似て木霊した。『騎士』という単語が無限にくりかえされるのを背後に、【維持機能】をひとまたぎに跳躍する。オレの肢は速い。追いつかれることはない。否、追いつかれたことはまだ一度もない。
 だが……。
 オレ様自身を【召喚】する試みはいつも、ここぞという場面で失敗するようだ。
 最後のひと触れに到達できない。まるで、絶頂の寸前に抱き合っている相手を虚空に連れ去られたようだ。
 底無しの悪態をついて罵ってやろうにもその連れ去った相手もまた自分だとすれば、延々と続く遅延と迂回さえもただの「焦らし」として輪の内へと回収される。なにもかもが所詮はただの自慰行為だとさかしらに呟き、土のしたで惰眠を貪れるならオレはこんなふうに彷徨い出たりしない。ぶっちゃけていえば、オレの欲求不満が解消される瞬間が刻一刻と遠のいているような気がしてウンザリだ。
 オルフェ七世が、オレをもう一度よびだしてくれればいいが。いや、それは無理か。彼は疲弊している。あまり無茶をさせては本番に差し障る。それだけは、避けたい。
 さてと。
 あまりひと処に落ち着いていると、追いつかれる。
 跳ぶ、か。

 「きみは、じゃあ、『騎士』に触れたことがないのか?」
 懐かしい声が、オレの耳朶をうつ。
 キミ、と。
 たまに、ほんの偶然という顔で、ふたりだけのときを見計らって彼がそう呼ぶとき、生まれた瞬間から息を引き取るそのときまで大貴族であり続けた男が、ほんとうの素顔を見せようとしてくれているとオレは気がついた。
「ありませんね」
 オレは、彼の長身を横目にしながら何でもないようにこたえる。深い知性を湛えた青い瞳がオレの横顔に注がれているのを感じ、そしてまた、彼がどう続けるつもりなのか想像を巡らして愉しんでいた。
 当時、国王よりも権勢があると噂された、一回り以上も年の離れた男にも、オレはそれらしい敬語を使わなかった。ひとつには、オレも、エリゼ公国の二番目の地位についていた人物だったからだ。へりくだることで故国をこの大国の下につかせるわけにはいかず、また、相応の野心があった。若くして賢人宰相なぞとひとに呼ばせて恥じぬ男に、隙あらば一泡吹かせてやりたかった。
 だが、ほんとうのところ、初めて会ったころのオレは、彼の親しみという名の友情をちらつかされる度に、あの手入れの行き届いた手に撫でられることを欲する犬のごとく尻尾をふっていたように思う。彼は、どれだけオレが高飛車な態度で彼の意見に反撥し皮肉をいってみせても無粋な田舎者と見下すことはなかったし、やんちゃな弟を見る目つきで甘やかしたが、いっぽうでオレの怠惰と怯惰には情け容赦なく集中砲火を浴びせて非難した。しかも、オレにだけそれとわかる形で。
 洗練という名の富貴はどうやっても購えない。
 オレは実のところ四歳から六歳まで公都の外で育った。賊徒に乳母とその家族ごと襲われ連れ攫われたのだ。彼らはオレの目の前で陵辱されて殺され、オレは言葉を失った。否、奪われた。オレの悲鳴を封じるため、オレを殴った男の顔はおぼえている。オレは頭を強く打って昏倒し、続いて自分が何者であったかも忘れた。
 いや、自ら記憶を殺した。
 その後の記憶はあいまいながら、物語作者らしく断片をつなぎあわせると、賊徒たちの手から逃れて彷徨っているところをエリゼ派の修道院に拾われたらしい。ことばの話せなくなっていたオレは知恵遅れの子供だと思われていたが、彼らは至極優しかった。もしかすると、それだからこそ優しくされたのかもしれないが、オレは自分の内側にあることばの渦に翻弄されながら、ひたすらに身分を明かすことを恐れた。
「誰よりも先鋭的だと評判の猊下ともあろう方がそんなふうにおっしゃるとは意外ですね。らしくない従順さは、まさか、麗しのエリス姫のいった呪いを恐れてのことではないでしょう? あんな遺言を守るのは、愚か者のすることではないかね? 百五十年も眠ったままの、不老不死の男の身体を開いてみようともしないとは!」
 そうだった。
 『騎士』に対して彼は終生かわらぬ愛着があったようだ。オレはそれを、浪漫的な甘美への陶酔とはべつの、彼らしい探究心ゆえと感じていた。だが、彼の秘密の恋を知ってからは、やはりそれは人の子らしい疾しさと同等の憧憬であるのかと、当時ひそかに彼を恋うていたオレは吐息をついたものだ。今にして思えば、あれは恋というより憧れと呼ぶに相応しく、熱病めいた逸りも彼の真実の恋を知ったとたん、己の幼さを滑稽に思う間もなく掻き消えた。オレは自分を生きるので精一杯の子供で、彼は誰かを生かすことのできる大人の男だった。それだけのことに気づくのに、オレは二年もかかった。
 彼の質問という名の反論は、疾うに予期されていた。オレは、血のように紅いと謳われた瞳をむけて微笑んでみせた。
「宰相閣下、約束とは所詮、破るためにあるなぞと申しますのは野蛮でしょう」