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『歓びの野は死の色す』つれづれのことを語る

今日もグダグダなことを
ていうか、ええと、
ようやくでてきたアレクサンドル一世猊下
いわゆる、作中内作者でございますな
このひとがいちばん書きやすいです、てへぺろ☆ 笑って誤魔化せばいいってものじゃないかもですが、でも、ほんとです
現代小説をよんでれば、たとえば筒井さんの小説なんかではべつにふっつーーに書き手の登場ってありますし、珍しくもなんともない趣向ですね
とはいえ、さいきんではその「書き手の不在」というか、物語が勝手に生成されることをよしとする(期待する?)書き手たちがいるようにおもいます(たとえば、ナントカえんじんやナントカきかん、といったタイトルをつけるかたがた)
ちなみにこの小説も、いわゆる「手記」という書き手の一人称が遵守された体裁ではなく、《夜》という「演目」(??)仕立てなわけです
つまり、これ、「書かれたもの」なのかどうか、ていうあたり、ですね
わたしという人間にとって、小説というのはおしなべて、「書かれたもの」である、という認識なのです、こういう趣向を凝らさない限りは!
その基本は手記であり、または書簡であり、ていうのが小説の「体裁」だとおもうのです
むろん、くりかえしますが、こういう手法やら趣向やら技法やらを使わない限りにおいては、てことですが
ただし、この「認識」はだれもかれもが持っているものではないんだなあということに、気がついたのはわりとさいきんのことでした