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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

 僕がエリゼ公爵になったのは、父が流行病で倒れてすぐのことだった。幼い頃には精神疾患と看做され強制的に他国で「治療」されたであろう異性装癖は、大教母の宣旨のおかげで了承され、今では臣民の娯楽と化している体もある。
 自ら戦車を駆って大競技場を沸かした古代帝国皇帝も斯く在りやとまで言われると、いい加減に目を覚ましたほうがいいと他人事ならず思うが、それが我が臣民であるということを何よりもまず忘れてはならない。
 エリゼ公国が性的少数者への差別を撤廃しえたのは《死の女神》教団が不断の努力をつづけた結果で、ある意味では奇跡のようなことでもあった。むろん、他国では同性愛者が死刑を命じられることさえある。それゆえわが国は積極的に亡命者を受け入れているし、また時には《死の女神》教団が国外へも圧力をかける。
 この小国にそんな真似ができるのは、ひとえに『騎士』のおかげでもあった。
 『騎士』が何者であるかについてはエリゼ公国の子供でも知っていることだ。ところが、彼の肉体に手を触れることはかなわぬので目新しい発見はないのと同じく、《夜》についての研究もまた進んではいない。
 ためしに、百五十年ほど前に書かれたモーリア王国賢人宰相の『随想集』によれば、こうある。

 『大文字で《夜》といえば、エリゼ公国の不可思議な祭りをさす。
 《死の女神》教団の葬祭長がその役を任ぜられるとき、《夜》が落ちる。
 《夜》とは、死者たちの再生であり、またかの国の神秘すべての源である』

 つまり、大したことは書かれていない。
 いや、そこには重大な錯誤ともいうべき単語があるが、いまは措いておく。
 そのことについて言及し、また研究すべきは僕ではない人間のやることであるし、僕はそもそも当事者であり、それについて他人の顔をして語りたくない。
 語るとは、しょせん、他者の特権であるとこの国の人間なら知っているはずだ。
 もとい、《夜》があることはみなが知っている。また、その訪れが葬祭長就任の儀のときであることも認知されているが、それが何であるかは誰にもわからないのだった。わからないものをわからないと述べることは、潔いと僕は思う。
 しかしながら教団内部ではそれなりの回答を出していて、僕の弟が催す《夜》が、未だかつて誰も経験したことのない異例なものとなると告げてきた。
 僕にも、それはうすうす理解できた。
 弟は、なにしろ女神の寵児として生まれたのだから。
 黒髪に黒い瞳の、誰もが息をのむほどに美しい僕の弟――彼は、『騎士』を《夜》に帰すべく努力してきたのだ。
 古神殿執務室の寝台に横たわる『騎士』。
 太陽神殿の神官職の証である純白の装束をまとう丈高い騎士は、不思議にも「神官」ではなく「騎士」と呼ばれていた。当時でさえ珍しかったであろう広刃の長剣を胸に抱き、眠りについたままの麗しの騎士。
 そう……彼は、美しかった。
 少なくともこの眼に、彼ほど美しい騎士がうつったことは一度もない。
 僕は、彼の「姫君」になりたかった。
 彼の愛する、美しく気高い《死の女神》の寵児に。
 しかしながら、僕には女神の恩寵はなく、エリゼ公爵家らしい豪奢な金髪の巻き毛といつ頃からか特徴となった菫色の双眸に恵まれた。とりわけ僕の両目は赤い。葡萄酒のような、滴り落ちる血ほども紅い虹彩は、魔物めいて見えるらしい。僕はいま不用意にいつ頃からかと口にしたが、いつかは知られている。
 《夜》を今あるような形で催すことに成功した初めての葬祭長アレクサンドルの時代より後のことだ。彼はまた、文字通り初の「男性葬祭長」でもある。これをもって「男性優位説」の論証にしたがる一派もあるが、《死の女神》教団はそれを否定している。ちなみに僕がある会議で、国家をあげて男根中心主義に非難の声をあびせかけるべくすすんで女装をしていると言い訳をしたが、それは後付けの理由で本心ではない。さいぜんのように、僕は幼いころから姫君になりたかっただけだ。
 だが、はじめの動機は個人的なものでも、意外に政治的なものはついてまわる。僕の声は無視されず、国を超えて女神の信徒たちに届いたようだ。
 モーリア王国の革命後の反動で、大陸中が揺れ動いた時分には《至高神》教団もまた鳴動した。いきすぎた華美と絢爛は当然のごと、彼らの意図した清廉さを裏切った。彼らの教団の腐敗と堕落が明らかになったとき、至高の神を祭るものゆえに美しかった聖堂さえも、豪奢という欲望に埋もれて失墜したと、ひとびとは感じたようだ。略奪の後の火付けと打ち壊しが、千年、数百年と時をへた聖堂を無残なものへと変貌せしめ、彼らの智もまた失われた。
 いっぽう、《死の女神》教団はそもそも信徒たちから恨まれる贅沢とは無縁であった。それを、歴代の大教母たちの偉大と見るものもあるし、エリゼ公爵家の治世と賞賛するむきもあるし、エリゼ派と呼ばれる太陽神殿の一派の働きがあると指し示すものもあれば、『騎士』の存在へと全ての善をおしつける輩もいる。
 歴史とは解釈の数だけあると述べたのが誰であったか忘れたが(僕の物覚えの悪さは葬祭長になれなかっただけあって深刻だ)、このはかりがたさゆえに魅了されるものがあるという点には僕でさえ頷かないではない。
 とはいえ、こうして僕の要領をわきまえない分断された思考は、いつしかまた、《夜》によって再現されるのではないかと僕は恐れている。
 暴かれるものとは隠されたものであり、
 隠されたものとは暴かれるためにあるものだ。
 それは、性欲に似て暴力的で醜く、知られない秘密という名に相応しくこのうえなく無垢で、己の無知をかえりみないために恥知らずであり、欲望を喚起せしめるものであるせいで美しい。
 僕が、何について語っているかわからないと思うむきには、わからくてもいいと告げておく。わかる必要などない。今はまだ。
 いずれにせよ、《夜》は来る。
 僕の処だけでなく、
 アナタノトコロニモ。