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歓びの野は死の色すのことを語る

伝説

 もう四年ほど前のあたしの誕生日に、サルヴァトーレが帝都の一区画をうつした地図をくれた。それは、鳥にでもならないと見ることができないくらい美しく、正確無比に完璧で、まるで魔法の手妻ようだった。
 なにしろこの地上においてあんな精巧なものが作られたことは過去一度たりともないんだから。
 もちろんトトはあの涼しい顔で、実は魔法ですからと微笑んだ。自分で考えろという謎かけだと知ったあたしは、すぐさま同じように別の地区の地図を作り返した。
 足で測った距離と紙の上の縮尺をそろえるのは半端じゃない労力がいる。やり方さえ知ってしまえば簡単なことだけど、誰もができることじゃない。それこそが天才が天才といわれる所以で、サルヴァトーレはその才能ゆえに帝都の黄金宮殿で大事にされた。
 だから、彼と同じことをやすやすとやってみせたオルフェ公子にあたしは感服する。
 と思ったけど、このひとは、あのエリスの兄上だった。
 黄金宮殿でサルヴァトーレと対等にはなしをした唯一の女性、それがエリスだ。もっといえば、皇女たるあたしの教育係に任命された辺境の女……。
 あたしは、帝国貴族のむすめとして古代の詩を諳んじることなど当たり前、帝国支配下にある国の言語はすべて読み書きできるよう幼いころから学ばせられた。そのうえトトとエリスの管理下で哲学、幾何数学はもちろん、医学にいたるまで勉強させられた。基礎は幼少時から陛下と大神官聖下に叩き込まれていたけれど、その上にふたりして容赦なく詰め込み鍛え上げてくれたものだから、負けず嫌いのあたしは寝る暇もなかった。体力だけはあったから、こなせたのだと思う。
 そのふたりが口を揃えていうには、あたしは勘がいいらしい。
 自分でも、そう思う。
 そして、その勘を信じていうなら、オルフェ公子はまだなにか隠している。
 まずもって、この地図だっておかしい。はじめ、異国人であるあたしに街の秘密を明かすのを恐れて、わざとこんな図をかいてみせたのだと思った。または、急場しのぎのために誤魔化したのかとも。
 でも、そうじゃない。
「アレクサンドラ姫、たしかにぼくはこの地図を使って地上に出たことはありません」
「でも、張り巡らされた出口がどこの屋敷の下にあるか、そこが閉ざされているかどうかくらい確かめたのでは?」
 彼は嫣然と微笑んで、あたしを見た。
「そうですね。貴女が、ヴジョー伯爵家の通路を辿ってぼくの私室にきたように、位置関係はつかんでいます」
「その出口が使えるかどうかも」
「場所によっては」
 彼は、それをあたしに教えるつもりはない。さらにはあたしが進もうといったのに腰をあげるようすもない。ぐずぐずする質でもないのだから、まだ話すことがあるのだと覚悟をきめた。
 あたしは聞かないとならない。
 そしてまた、この男に、殺されるわけにはいかない。
 さらには殺すわけにもいかない。
 このひとが隠しておきたいことは、街の秘密ではなくて、彼自身の力についてだ。
 オルフェ公子は、ほんとうはヴジョー伯爵のこともエリスのことも、実は皇帝陛下のことさえも、怖がってはいない。ただ、恐ろしいのは、自分自身のことだけ。
 だって、こんな、一条の光もささない暗闇の中を、こんなものを頭に描き出せるほど歩き回るなんて狂気の沙汰だ。
 でも、こんなものがあれば、暗殺であろうと何であろうと自由自在にできる。
「アレクサンドラ姫、地下通路の伝説は皇帝陛下から教えていただいたのですか?」
 質問の意味は、ヴジョー伯爵家のどこからあたしが通路を辿ってきたのか、そしてまた伯爵の母上がそれを知っているのかどうか、そのあたりに集約されそうだった。あらかじめ、あたしは正直に話すことに決めていた。手札は彼のほうが多い。その場合、うそをついてもろくなことはない。
「通路の道筋については、そう。それから、エリスとは、この件については話してない。知らないようだったし、教えることでもないからね。伯爵の母上には知らせていない。それがあることも、たぶん、知らないと思う」
 そこで安堵したらしいオルフェ殿下にむかって、あたしはさきをつづけた。
「でも、伯爵が知らないかどうかは確かめてない」
「そうでしょうね」
「殿下、伯爵を消すためにあたし以外の暗殺者を雇い入れた?」
 その質問には、表情をかえなかった。
「わざわざあたしの身許を確かめさせたりしたのは、そのため?」
「貴女は目立ちすぎますから」
「それが答え?」
「ルネが、いけないのです」
「オルフェ殿下」
「そうではありませんか? まるでこの街の君主が自分ででもあるように無腰で独り歩きし、抵抗もせず独房にはいるなんておかしいじゃありませんか。己の公明正大さを頼みに誰からも恨みを買わないでいられると信じる男を、どうやって処罰すればいいんですか」
 あたしはそういった相手の白すぎる顔をみた。相手が無反応なので、あたしは吐息をついて返す。
「私怨で殺すほど、あなたは愚かではないよね。ソレが、もうひとつの条件?」
「アレクサンドラ姫?」
「月の君が殿下に要求するとすれば、まずは伯爵の命だと思う。エリスの身柄と伯爵の命、それと引き換えに大砲とお金、そして傭兵の手配をするってのが月の君の出してきた条件じゃないの? 殿下には常備軍として神殿騎士がいるけれど、畢竟お飾りでしかない。戦争を前にした小国がまず欲しいのは、すぐにも実戦で使える槍持ちの騎士だよね? または、それにかわるヴジョー伯爵の郎党たち。違うかな?」
「貴女には、かないませんね」
「そうでもないよ。あたしも騙された。陛下から注意を受けていたにも関わらず、伯爵から目を離してしまったからね」
 あたしはことごとく失敗した。
 これじゃ、陛下になんていったらいいかわからない。
 このひとの私室にある青銅製の扉は、外側からは開かないようにできていた。あのとき彼が急いだのは、エリスを救うためだけじゃない。自身を、ヴジョー伯爵やゾイゼ宰相、その他、彼を阻害しようとする者たちから守るため。もしも暗殺が成功しているとしたら、真っ先に狙われてもおかしくないからだ。
 まったくもって用心深い。それこそ、エリスに見習わせたいほどに! 
 そしてまた、それは、ヴジョー伯爵の鷹揚さと対極にある。  
 だからこそ、伯爵はほうっておく。小娘たるあたしに心配されたくないだろうし、陛下にも申し開きのしようはある。
 それよりエリスが心配だ。口は達者でも、腕力なんてからきしないのだから。飢えたこともなければ殴られたこともない、地面どころか藁のうえに寝たことさえもない、正真正銘の姫君だ。女戦士たちの島で怪我をしながら育てられたあたしとは、違う。汚らしい兵士を目の前にしただけでも、どんなにか恐ろしかったことだろう。血痕はあたしの部下たちのものだとは思うけど、騎馬試合以外で剣戟など見たことがないはずだ。
 ゾイゼという男がエリスを月の君に引き渡すつもりなら、彼女は壊れ物のごとく大事に扱われているにちがいない。でも、本当にそうなのかどうか、確証がない。商売でのけ者にされた貴族たちが、エリスを恨んでいるのも事実だ。金で寝返られないとも限らないのが傭兵だ。
 荒っぽい男たちに囲まれた彼女を思うと、忌まわしい想像が頭をめぐる。女という生き物は、美貌であればあるほど不幸が舞い込むことがある。
 まるで雛罌粟のように、強くて繊細なエリス。
 地に咲いているときはあんなに綺麗で、踏みしめれば踏みしめるほど花を咲かせるのに、摘み取るとすぐに萎れてしまう。
 あの儚さが、脆さが、いつもあたしを不安にする。
「伯爵が邪魔なのはわかる。でも、エリスは別でしょう?」
 あたしの素直すぎる問いかけに、殿下は小さく笑ったようだ。
「貴女の大事はエリスなのですね」
「はじめっからそう言ってるじゃない。だから早く彼女を助けなきゃ」
「ぼくはエリスも大事ですが、貴女を危険にさらして皇帝陛下の不興を買うのは避けたい。貴女の受けた教育は、まさしく帝王教育そのものです。田舎者のぼくにだってそれくらいわかります。とすれば、貴女だけは生きて返さないとならないのです」
「あたしは自分の身くらい自分で守れるよ。最悪、殿下をおいて逃げるくらいの真似はする」
 あたしが余計なことをいったというのに、彼はちらとも笑わなかった。それからじっとこちらの顔をみて、長い吐息をついた。
「そうですね。是非ともそうしてください。ただし、戦うも逃げるも可能なのは、相手が人間のときだけでしょう?」
「殿下?」