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歓びの野は死の色すのことを語る

伝説

 《歓びの島》――それは、西の海に浮かぶ、不死の神々のいまする処。ひとの身が辿り着くことの許されぬ絶海の孤島。季節を問わず花咲き乱れ鳥が鳴く、麗しき「伝説の島」。
 しかしながらトトがたんに妄想を抱いているとも思えなかった。何故なら月の君が長の年月、巨費を注ぎこみ、その「島」を探していたことを知っているからだ。
 むろん、帝都では月の君の手配した航海は、新たな交易地を求めての果敢なる冒険ととらえられていた。この海のはるか彼方に、この大陸と同じくらい広い大地があり、そこに大勢の人間たちが住んでいないとは言い切れない。
「未知の大陸に船が到達したというのか?」
 酷い有様だ、とトトの指がおれの縮れた髪に触れたが、おれはそれをそのままにして、問いを重ねた。
「《歓びの島》とは、何処にある?」
「この髪も、そこへ行けば綺麗に戻ります」
 指にからめとった黒髪にトトが唇を落としたが、おれは頭をのけぞらせるようにしてそれをよけた。
「エリス」
 非難がましい顔をされたが、頓着していられない。
「おれに触れるな」
「私が嫌いですか?」
「おまえがそんなに頭のめでたい人間だとは思わなかった。おれを恨んで復讐したいというなら故のないことでもないが、だからといって誰が自分を縛り上げて殴る相手を好くものか」
 手加減したという視線を向けられたが、おれはそれを言い訳に許すつもりはない。むろん、また相手を逆上させるわけにもいかなかった。おれは、この男の手をかいくぐり、どうにかして公都エリゼに戻らなければならない。公国貴族の陰謀を告発しようにも、ここでは何もできない。
 トトが大きく息を吐いて、わかりました、とつぶやいた。
 それからおれの乱れた衣服の前をそっと合わせ、ひざまずいて頭をたれた。
「お願いです。私を嫌わないでください」
「おれはさんざん殴られたのに、おまえは頭をさげればそれで終わりか」
「エリス、私は」
 言い募ろうとする相手を視線で拒絶し、おれは命じた。
「まずはこの縄を外せ。ひとつ言うが、おまえのほうが足も速く力も強い。おれが逃げてもおまえには適わない。それでなお、おれを縛っておかねばならぬ理由は、ただおれを虜囚の身に辱めたいというおまえの欲望でしかない」
「エリス、あんたが私を見て逃げるから」
「逃げたからどうだというのだ」
「私があんたをあの黒衣の男から救わなければ、あんたは騙まし討ちのようにして敵国の国王の手に落ちていたのかもしれないのですよ?」
「ああ、それはそうなのだろうな。そこには異論はない。おまえのいうことは真実だろう。モーリア王が捕らえたおれに改宗を迫り、おれがその子を生めば、エリゼ公国は戦わずしてモーリア王のものになる可能性も出てくる。この国の西側の公国貴族たちは、そのときに広い領土を託されると踏んでモーリア王側に与したのだろう。
 だが、おまえはおれを助けたというが、ただおれに暴力を振るって拘束し、おまえの自由にしようとしたではないか」
 また殴られるかもしれないと思ったが、言わずにはいられなかった。
 もうたくさんだ。
 いや、おれは生きて帰らなければならないのだから、殴られて意識が昏倒したりすれば困る。だが、もうたくさんだ。こんなことはもうたくさんだ。
 おれはたしかに公国の姫君で、この国の礎になるために生まれたのだろう。そう思ったからこそ、十年前、おれは公国の自由と安寧のため、政治の道具になることも甘んじて受けた。
 おれは、男たちの政治の駒でしかない。だから、おれをそうやっていくらでも利用すればいい。それで救われる命があれば、守られる大地があれば、おれはそれでいいと思ってきた。いや、それ以外、自分の価値などないと考えた。
 だが、現実はどうだ?
 おれの沈黙が、従順が、男たちをただたんにのさばらせただけではないか?
 自分たちのことしか考えない者たちに、おれが屈するいわれはない。
「おれを好きだといいながら、どうしておれを打てる? おれを縛り上げられる?」
「離れていこうとするから……」
 またしても繰り返された途方もない勝手な言い訳に、おれは掠れた笑い声をたてた。
「昔、そういっておれを縛った男がいたよ。おれが、そのひとのことをどうやっても愛せなかったのは、おまえが一番に理解してくれていると思っていたがな」
 唇をかんで反論をたえるトトの顔に吐息をついた。
 トトは立ち上がり、おれの背中にまわった。落とした短剣をつかみ手首を戒めていた縄を断ち切る。自由をたしかめようと振り回そうとした手首をつかみ、トトはそこに唇を寄せた。
「お願いです。どうか許してください。私を嫌わないで……あんたに嫌われてはどうしたらいいかわからない……」
 縄に擦れた皮膚に濡れた感触があり、その生々しさに手をひっこめた。
「エリス!」
「もういい。おまえとここでこれ以上その件で話し合う気はない。それより、《歓びの島》の話を聞かせろ」
「エリス、私は本当にあんたを」
「おれが魅かれたのは、今のおまえじゃない」
 その言葉に、トトが息を詰めた。
「おれは、あの黄金宮殿でおまえが己の才覚ひとつで皇帝陛下や月の君とわたりあうのを見るのが好きだった。誰の後ろ盾もなく、自分の美貌と才知とで相手を翻弄し、誰にも縛られず、誰をも縛らず、自分のしたい研究を成し遂げるために弛まず努力していたおまえが好きだった。
 かわっておれは自分の非力を憂え、わけのわからぬうちに月の君の庇護を受け――いや、あの当時は考え抜いた結果の判断だと思っていたが――おのれの尊厳と自由を他者に売り渡した自分を憎みもせず、ただ諦めてすごした。だからこそ、おれはおまえが眩しかった。同じような立場にありながら、おまえは強く自由で美しかった。
 だが、今おれはそう考えていた自分を疑う」
 おれはトトの手を振り払って膝をおこした。
 彼は、立ち上がらなかった。けれどそのままおれを見あげ、決然とした調子で告げた。
「それでもエリス、あんたは《歓びの島》へ行くべきだ」